元 ハイスペック()ぼっちの回顧録

かつてハイスペック()ぼっちを自称していた文系大学生のブログです。「常に観測者でありたい」

生存報告

前回記事から4週間も間が空いたのは、車輪の国*1をプレイしたことで、改めて時間の大切さに気付いたからです!そして、ブログを書くのも時間の無駄だと気付いてしまったのです!(というか薄々感じてた)

そもそも、そのプレイ時間自体が時間の無駄だったのではないかという気もしないではない。でも、まだ2章までしかやってないし。続きを知りたい気持ちを抑えながら勉強に励むという、精神の鍛錬にもなっているのだ!
そんなことやってないで上手く時間作れよって話ですが。平日なのに12時間近く寝てる日とかあるのは本当に問題な気がする。

 

それで、(予備試験の)勉強をする気になったところで、「なぜ法曹を目指すのか」というテーマを書いておこうかと思ったのですよ。
前から考えていたものだし、少し前に本庶佑氏がノーベル生理学・医学賞を取った時にも興味深い話を聞いたので。

その為には、やはりまず「文系に進む意味」を考える必要があるでしょう。近い将来仕事がなくなると言われていますし、最近は文系不要説まで唱えられているという噂ですし。
僕は最初から文系だったわけではなく、文転した人間です。このブログは「回顧録」と銘打っているので、何故その選択に至ったのかを探るべく当時のメールを読み返して見ました。

そこで、元同志Aの辛辣な言葉にぶち当たったんです。そういうものを読んでいるうちに、改めて勉強しよう!という気が湧いてきて、パソコンを閉じました。

 

ここまでが3週間前の話。

それから紆余曲折を経つつも勉強していたのですが、憲法の復習が終わったところで僅かな気の緩みが生まれた結果、某ソフトのキャラメイクにハマってしまいました……

因みに、これまでの最高傑作がこちら。↓

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最初期に、プリセットのものを適当に組み合わせていたらできた(ものだと思う)。多分パラメータは殆ど弄っていないのですが、驚異的な可愛さです!……みんなもそう思うよね?
ここまできてしまうと、バーチャル>>>越えられない壁>>>リアルであることが一目瞭然です。

でもこういう顔の人実際にいそうだし、何もしてないけど、こんな彼女が欲しい……

 


さて、そもそも何故3Dキャラメイクに手を出したのかというと、艦これの大和をリアルな形に落とし込みたいという願望があったからです。
しかし、彼女を再現するにあたって重大な問題があった。
ハ◯ーセレクトは、手脚の長さが弄れません*2
特に脚の長さを変えられないと、大和のあの感じは出せないと思うのですよ。
ということで製作者さん、新作出すときは、是非手脚の長さも変えられるようにしてね!

脚の問題は置いておくとして、最大の難関が顔です。これさえクリアすれば、完成したも同然!
大和の場合は「可愛い」ではなく「綺麗」な顔を作りたいのですが、これがなかなか難しい。
それに、一般的に美人と言われる顔は楕円のような細長い顔のようなのですが、寧ろ顎の部分は正八角系に近い形にしたいんです。しずまよしのりの絵もそうだし。でも、顔の輪郭を思い通りにするのが結構大変。

あと、細目の美人顔って難しくないですか?(大和自身は細目じゃないと思うが、僕はそうしたい)
アニメタイプの絵は目が大きいですが、それだと可愛い感じになっちゃうんですよ。ただ、細くしすぎると今度はホラーみたいになる。
今回色々やってみて、目によって人の印象は大きく変わる、ということを実感しました。


という感じで思い通りの顔が作れないまま、今日に至るわけです。
いい加減勉強に戻りたいので、この記事を書いて一区切りにしようかと。
このままキャラメイクに時間を吸われると、ろくなことがありません。

ブログについては最初の方で時間の無駄とか書きましたけど、やっぱり、一度始めたことを続けられないようじゃ、勉強も続けられませんからね。(←こじつけ)
それに、時間の使い方をルーティン化するのも大事な気がする。

今月の中旬には、「文系に進む意味」や「法曹を目指す理由」についての記事をあげるつもりです。
中旬に入る前でも民法の復習が終わったら書きたいと思いますが、残念ながら多分それはない。

 

記事を書きながら作中歌を聴いていたら、『宇宙よりも遠い場所』を観たくなってし舞いました……

正直、一本ぐらい観ても大して勉強時間は変わらないんだけどね。問題は、そこからなし崩し的に2本、3本と観てしまうことです。

中高時代には、1週間程度の試験期間中に4クールのアニメを観るなんていう暴挙もやっていましたが、あの時代に戻るわけにはいかんのだ。

 

宇宙よりも遠い場所』といえば、苦い思い出があります。

大学で授業中に「受験中に観られなかったアニメを観たい」という話をしていた2人組がいたのですが、

A:「あと『よりもい』も観たい」

B:「何それ?」

A:「うちゅうよりも遠い場所」

(A君ドヤ顔)

 

ということがあったのです。

「『そらよりも遠い場所』だろ!」と全力で突っ込みました。心の中で。

確かに知らないと仕方のないことだけどね。略称を知っていて何故正式名称を知らんのだ……

これだから友達ができなかったんですね。

 

そういえば、「ぼっち道」のことも忘れたわけじゃないです。次の次ぐらいの記事で第2回を書くと思う。

 

それでは。 

*1:あかべぇそふとつぅ車輪の国、向日葵の少女

*2:実はそのためのMODも出ているのですが、非公式だし。何より使いづらい。

ぼっち道をゆく  第1回 「ぼっち」とは何か 〜「ぼっち」の定義〜

新学期が始まりました。朝起きて大学に通う日々が戻ってきてしまった……

気付けば前回記事から2週間以上経ってしまいましたが、やる気が失せないうちに、前回予告した記事の第1回を書いてしまいます。本当は、予備試験の勉強したくないだけ。 

何か全体を通したタイトルが欲しかったので考えたのですが、良い案が思いつかないので、とりあえず「ぼっち道をゆく」としておきます。

 

念の為書いておきますが、「ぼっち、道(みち)をゆく」ではありません。「ぼっち道(どう)を、ゆく」です。

「ぼっち道」の「道」は、弓道とか茶道の「道」と同じです。ぼっちという在り方を通じて鍛錬と真理の探究を重ね、「究極のぼっち」を目指します。それは同時に、物理学から政治学、哲学まで幅広い学問分野を包含した一つの体系でもあるのです!

っていうのは冗談です。「道」を付けたらそれっぽくなるから付けただけ。

 

 

 

それでは、内容の方に入っていきましょう。

記念すべき第1回のタイトルは、「『ぼっち』とは何か 〜『ぼっち』の定義〜」です。

文字通り、「ぼっち」とは何かを考えます。

何を語るにしても、対象を定義することは重要だと思うのですよ。認識に差があると、適切な議論はできませんからね。

 

しかしその前に、全13回を予定している一連の記事がどのようなものか、ということを示しておく必要があるでしょう。換言すれば、何故こんな記事を書くのか、ということです。

 

ここ数年、孤独に対する社会の評価が変わってきているように感じます。つまり、これまで主に害悪として扱われてきた孤独に対して、肯定的な評価がなされはじめていると思うのです。*1ようやく時代が俺に追いついたようだ。

勿論、そうした言説は今に始まったことではないでしょう。しかし、かつてないほど大きな(と言っても大したことはありませんが)変化の波が押し寄せてきているように感じます。書店に行けば孤独を推奨するような自己啓発本も少なからず見つけられることでしょう。

背景には色々あると思いますし、それについてここで深く突っ込むつもりはありません。しかし、中高生の自殺の問題や、LGBTなどの少数派に対する態度の(少なくとも表向きの)変化などがその一翼を担っていることは間違いないと思います。もしかしたら、世界で流行りの自国第一主義的なものにも通じる部分があるのかもしれません。

 

さて、そうした事実?を踏まえた上で、ここで「ぼっち道をゆく」なる題の記事を書こうとしているのは、なにも流れに便乗してぼっちを推奨しようなどと思っているからではありません。寧ろ、僕としてはこのような流れに賛同しかねていると言ってもいい。

というのも、上述の社会的な流れとぼっち道では、恐らく抱いているものが全く異なるからです。それに、ぼっちというのは人間の在り方として決して適切なものではないでしょう。

 

ということで、一連の記事を読めば、望まずしてぼっちになった人間が救われる、なんてことは(ほぼ)ないでしょう。ぼっちを含む少数派を元気付けよう、などと思っているわけではありません。援助を求めているなら、多分自治体の窓口とかその手のNPOにでも連絡する方がまし。

何を思ったかぼっちを志してしまった人間の手引きになる、ということもないはずです。そんなものになっても困る。

健全な中高生に対して、道を誤らないよう戒めるものでもありません。そもそも、健全な中高生はこんなもの読んだりしないんだな。

 

これは、ぼっちの言い訳に過ぎないのです。吐き出す先もなく頭の中を彷徨い続けている、くだらない言い訳に過ぎないのです。

それを見知らぬ何処かの誰かさんに読んでもらうことで、ちょっと気を楽にしよう、というだけなのです。

ブログなんて、究極的には自己満足なので。

 

 

 

何となく意図を理解してもらったところで、本題に入りましょう。

早速ですが、ぼっちの定義は何か。

色々な考えがあると思いますが、ここでは以下のような定義を用います。

 

定義1

 ぼっちとは、孤独を感じている常況にある者を言う。

 

ちょっと成年被後見人を意識してみた。(民法7条参照)

「ぼっち」が「ひとりぼっち」の略であることは異論のないことで、そのような原義を考えると、上記の定義は若干意味が違ってきます。その問題については後で触れることにして、解釈にあたっていくつか注意をしておきましょう。

 

・「孤独を感じている」について

何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、これは意外と深い問題です。

しかしここでは深入りせずに、主に2つの状態を指すと解します。

まず、孤独を2つの意味に分けます。

①心情としての孤独。寂しさ。

②事実としての孤独。一人でいること。

定義1は、この両方を含むものです。

つまり、①所謂「寂しい」という状態に加え、②「客観的に見て自分が一人(=ひとりぼっち)であること」を認識している状態をも指します。

前者を「主観的ぼっち」、後者を「客観的ぼっち」と呼ぶことにしましょう。

定義1では、少なくとも一方に該当すれば、ぼっちと見なします。勿論、どちらにも該当するケースが殆どでしょう。一般的には、ひとりぼっちだからこそ寂しさを感じるわけで。

ただ、定義1によれば、寂しさを感じていなくてもひとりぼっちであると認識していれば、ぼっちであることになります。これは、ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではないという観点からすれば、当然の帰結です。

唐突に登場した「ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではない」という考えは、一見すると「ぼっちが人間の在り方として適切なものではない」という見解と矛盾するようにも思われます。これについては(忘れていなければ)後々説明するので、今はそういうものだと思って受け入れてください。全13回の記事を読み終えた暁には、きっと納得もできていることでしょう。

他にも特殊なケースがあるので、それは後述の問1・問2で触れることにします。

 

・「常況」について

 具体的にどれくらいの割合なのか、ということが問題になりますが、これは緩く解釈してしまっていいでしょう。

つまり、60,70%ぐらいあればよいものとします。*2sometimesとかoftenって感じ。

もっと言えば、本人が「そう感じていることの方が多い」と感じていれば、それでよいと思います。流石に緩くしすぎかな。

というのも、「文字通り常にひとりぼっち」という状況は考えにくいからです。

学校や会社や家族がありますから、一人ぐらいは傍に立ってくれるような人間がいてもおかしくはないのです。そういう人間が本当にゼロだと言うのなら、1回ぐらいは認識に欠陥があることを疑うべきでしょう。*3

勿論、四六時中寂しさを抱えている、ということは考えられます。

でも、「常況」をあまり厳しく解釈してしまうと、ハイスペック()ぼっちを自称していた当時の僕が「ぼっち」に含まれなくなるという不都合が……

 

 

これらの点については、批判もあるところだとは思います。しかし、解釈にあたっては、定義した人間である僕が言っていることが正しいのだ!

それでは、先述の論点に。

 

 

問1 たとえ客観的に見てひとりぼっちであっても、それを本人が自覚していない場合には「ぼっち」に当たらないのか。「孤独を感じている」とあることから問題となる。

e.g. Aはクラス中から毛嫌いされ、彼と親しい人間はいない。しかしクラスメートが遊んでいると、Aはさも当然のように入ってくる。彼の中では、クラスメートは友達として認識されているらしい。Aはぼっちと言えるのか。

 

勿体ぶった書き方をしているのは、気にしないでください。予備試験の論文を意識しているつもりのだけです。

この問題は、要するに、外からはどう見ても「ぼっち」なのに、本人がそう思ってなきゃ「ぼっち」じゃないのか、ってことです。

ひとりぼっちである状況を認識していない以上、当然「寂しさ」なんて感じるはずもありませんから、どちらの条件にも合わないことになってしまいます。

これについては、解釈に忠実に「ぼっち」には当たらないものとします。

というのも、遅かれ早かれそうした状況は解消されるからです。

 

ぼっちというのは、周りに人間(集団)がいるからこそ、相対的に定義されるわけです。*4

そのような状況では、ずっと気付かないということは考えにくいでしょう。本人が気付かなくても、周りの人間が(好意にしろ悪意にしろ)気付かせることもあります。そして本人が認識すれば、その瞬間から「ぼっち」に該当するのです。

気付かない場合でも、所謂友達のようなものができれば、ひとりぼっちではなくなります。

 

それに、認識できていない人間をぼっちに含めたところで、大して実益が無いんですよ。

その人に何かしら働きかけるということは、認識させることに他ならないわけで。放置しておく場合には、その人のことを考える必要もありませんからね。

 

 

問2 客観的に見ればひとりぼっちではない主観的ぼっち*5は、「ぼっち」と言えるのか。原義に反するように見えることから問題となる。

e.g. 学級委員長のBはいつも人の輪の中にいるが、心の底で寂しさを感じている。Bは「ぼっち」と言えるのか。

 

知り合いは多いけど親友はいない、真の理解者が欲しい、みたいなパターンです。

アニメだと、時々こういう女の子いますね。そこにイケメン主人公が転校してきて、彼女は恋に落ちる、と。

それに、SNS時代の現代においては、こういうパターンは増えているのではないでしょうか。 

これについても、解釈通りに「ぼっち」に当たるものとします。

「贅沢言うな!」という怒声が聞こえてきそうですが、ぼっち道で扱うのは主に心の問題なので、本人がどう感じているか、というのは大事なんです。

それに、敢えて主観準拠の定義にしたのはこのようなケースもぼっちに含めるためです。

 

 

以上のように、ぼっちかどうかの判断に際しては客観的態様は問いません。主観的態様を重視します。 今後も諸問題について基本的に主観を重視する方向で行くので、そのつもりで。

 

定義したのはいいのですが、 考えてみたら、今後ぼっちについて一般論的な内容を扱うことは殆ど無いですね。他のぼっちの生態なんて興味もなかったし。元同志Aと出会って以降の僕のケースは、かなり特殊なパターンのような気もします。 

一般論について知りたい人は、適当に本屋で漁るのが良いでしょう。ぼっちをテーマにした本もそこそこあると思いますし、先述の通り最近孤独を賞賛するような論調の自己啓発本が増えている(ように感じる)ので。読んだことはありませんし読む気もないので、内容については一切関知するところではありませんが。

 

 

 今回は、これぐらいにしておきましょう。ぼっちの定義は超重要です。試験に出ます。

第2回は、深遠なるぼっち道へ 〜かくして少年はぼっちとなった〜」と題して、ハイスペック()ぼっちを称するに至った少年の道筋を辿ります。

彼が本当にぼっちだったのか、という問題も扱う予定です。尤も、これについては既に答えが出てしまっていますが。

 

 

 最後に余談。

 

唯一とも言える大学でのぼっちの欠点として、一人で授業を受けているとほぼ確実に寝る、という弊害があったのですが、なんと、「隣にクラスメートがいても寝るものは寝る」ということが判明しました!僕だけじゃなくて彼も寝てた。

今学期は授業中に寝ないつもりだったんだけどなあ。早くも初週で破ってしまった……

ちゃんと数えたわけじゃないですが、先学期は一睡もしていない授業って多分全体の1割ぐらいなんですよね。そのせいで1科目しょうもない点数を取ってしまいました。対策を立てようと思ったのがラスト2回ぐらいになってから、というのも問題があった。

理系だとどうなのか知りませんが、基本的にひたすら教師が話しつづけますからね。面白かろうが面白くなかろうが、寝るときは寝る。それでも授業が終わった瞬間眠気が吹き飛ぶんだから、不思議なものです。

コーヒーとか飲んでもあまり効果が無いんですよね。どのようにして防ぐものか。

だいたい、授業が長過ぎるんですよ。語学とか、体感時間恐ろしく長いし。

高校の時から授業中寝てたのが良くないですね。多分あれで、寝る癖がついてしまった。中高生は注意しましょう。

それでは。

*1:孤独担当大臣なるものを創設した某国のような例もありますし、このような動きは日本だけかもしれませんが……

*2:なお、民法上の「常況」はもっと高い割合を指していると思われるので注意。それとも、これってパーセントとかそういう問題じゃないんですかね。よく分からん。

*3:認識を疑った結果本当にひとりぼっちだったというケースを一切否定するつもりはないことを、一応記しておきます。(2018/11/3 追記)

*4:絶海の孤島に一人で住んでいる人間がいたところで、それを知る者がいなければ「ぼっち」として定める意味はない

*5:全ての主観的ぼっちが該当する、ということではなく、外から見ればぼっちじゃないのに本人は孤独を感じている、ということ

ぼっち記事第1弾の予告と、Shepherd's Taleの感想

もうすぐ9月も終わりですね。早いものです。

 ブログ開設時から書くと言い続けてきたぼっちに関する記事第1弾の構成を考えてみました。

AUGUST LIVE! 2018 民族楽器アレンジ集 Shepherd's Taleについて読みたい方は下の方まで飛ばしてください。

 

 

元同志Aとのメールを元にこれまでの軌跡を振り返ってみよう!と思ったのですが、機種変更で最初の1年分ぐらいのデータが残っていないんですよね……惜しい気持ちはあったけれど、当時はこんなことになるなんて思ってなかったもん。

それに、残りのメールだけでも合計で数十万字はあるだろうから、もう一度読み返すには時間と労力が……

今からだと信じられないことですが、どんどん字数が増えていって、高2の頃には1回のメールで(3通ぐらいに分けて)1万字超ということが普通にあったんですよ。

 

というわけで完全に流れを追うのは大変なので、覚えている範囲でいくつかテーマを選び、(実際の時系列は前後しているかもしれませんが)並べてみました。

暫定的なものなので、今後変わる可能性はあります。(というかほぼ確実に変わります)

1クールのアニメ大学の講義を意識して、無理やり全13回にしてみたぞ!

 

1. 「ぼっち」とは何か 〜「ぼっち」の定義〜

2. 深遠なるぼっち道へ 〜かくして少年はぼっちとなった〜

3. 天才とは神である 〜孤高と孤独を履き違えた馬鹿が志向したもの〜

4. 二次元の罠 〜ぼっちが至った楽園〜

秒速5センチメートル』『とある科学の超電磁砲

5. もう一つのぼっち 〜外壁としての孤独〜

6. ぼっち道の試練 〜孤独への恐怖〜

7. (補論) 少年にとって同志Aとは何だったのか

8. 観測者としての在り方 〜鳥籠の鳥は本当に可哀想なのか〜

ゼーガペイン

9. 多殻世界論 〜理想政体を探る〜

楽園追放 -Expelled from Paradise-

10. 全人類クズ論 〜ぼっちが辿り着いた真実〜 

ギルティクラウン』『心が叫びたがってるんだ。

11. 第二世代の物語 〜何者でもない僕(ら)は、それでも輝きを求めた〜

ラブライブ!サンシャイン‼︎』『ブレイブウィッチーズ

12. いないなら なってみせよう ジーニアス 〜残念な現実と新たなる決意〜

13. 強さを求めて 〜そして、真なるハイスペックぼっちへ〜

 

タイトルの下にところどころアニメの名前が書いてあるのは、記事の中で言及する(かもしれない)ものです。随時追加する予定。

観ておくと理解度が5パーセントぐらい上がるかもしれません。もちろん、観ていなくても十分に理解できるようには書くつもりです。 僕も殆ど内容覚えてないし。

 

最初の記事がいつになるかは未定。

次の学期は大学の勉強を真剣にやろうと決意したので、あまりこっちに時間を割けなさそうなんだよね……←それならこんな記事を書いていないで勉強しろ!って話ですが

もちろん、落単とかそういうレベルなわけじゃないですよ?なんと言ってもハイスペック() だし。むしろ、大して勉強しなかったわりには中途半端に良かった。

受験期以上に勉強しちゃうもんね!予備試験の勉強もしなきゃいけないし。やる気だけはあるんだな。

夏休み殆ど勉強しなかったことが悔やまれる……まあ、いつものことです。

 

 

話は変わりますが、旅行に行く前に「AUGUST LIVE! 2018 民族楽器アレンジ集 Shepherd's Tale」というものを買いました。

これは、名前の通りオーガスト*1の楽曲の民族アレンジを集めたCDです。

8月10日発売だったのですが、「全世界で俺しか買ってないんじゃね?!」ってぐらい話題になっていません。

本当は旅先で聴くつもりだったのですが未だに軽く1周しただけなので、曲毎のレビューではなく全体についての感想を書きます。

一応書いておきますが、僕はオーガストファンではないので、収録曲の中で原曲を知っていたのはAsphodelusだけです。それについてはご承知おきを。

 

まず、ケースについて。

開け方が悪いのか安物なのか、開けるたびに外れるぐらい脆いです。まあ、大切なのは中身だからね。

また、公式サイト(http://www.side-connection.com/al2018_disc/)に「ブックレットには全使用楽器や、一部楽器の解説を掲載」と書いてあるのですが、アイリッシュ・ハープ、フィドルアコーディオンの3つしか載っていません。

確かに一部楽器だし、嘘は言ってないんだけどね……もう少し色々載っていることを期待していた。

良いところも書くと、楽曲毎に全ての使用楽器とコメントが記載されています。

これは素晴らしいです。特に使用楽器が全て載せてあるのは、楽器好きとしては有難い。使用楽器って、知りたいと思ってもどこにも情報がなくて分からないこと多いからね。

 

最後に、音楽的な面について。

曲にもよるのですが、のっぺりしているなあという印象を受けました。盛り上がりに欠けるというか。

音が薄いというのもあると思いますが*2、コンピューターで合成した音みたいで、音楽的な美しさみたいなのは正直あまり感じなかった。

ただ、僕に音楽的な素養とか審美眼があるわけではないので、あくまでも個人的な感想です。それに、1回聴いただけなので、今後この評価が覆る可能性は大いにあります。

多分、原曲を知っているだけでもかなり違うと思う。

 

全体的に否定的な評価にはなってしまいましたが、民族楽器アレンジ集というのは滅多にないと思いますし、貴重なCDであることは間違いありません。

民族楽器(とエ◯ゲ)に興味があるなら、買ってみてもいいのではないでしょうか。

13曲で2700円です。高いと思うかは貴方次第。

 

*1:エ◯ゲのブランドです

*2:僕はオーケストラみたいに多くの楽器がある方が好きです。特に、金管勢がぶっ放すのとか好き。

旅行に行ってきました!

しばらく更新していませんでしたが、山陰地方(主に島根)に旅行に行ってきました。人生初山陰です。前から、行きたいと思ってたんですよ。

電車だとアクセス悪いので、往復ともに飛行機にしました。実は、1人で飛行機に乗ったのは初めてです。

 

神々の国だけあって、島根県の神社は立派なところが多かったですね。

勿論、出雲大社佐太神社も見事だったのですが、特に良かったのは揖夜神社と美保神社です。

 

揖夜神社は、山陰本線揖屋駅(神社とは漢字が違う)の近くにあります。

歩いても数分ですが、駅に隣接する「東出雲まちの駅女寅」で自転車を借りられます。ここでは、荷物も預かってもらえます。しかもどちらも無料です!

僕が行った日は雨が降っていましたが、時間がないので自転車を借りて揖夜神社へ。

揖夜神社は、出雲大社と同じ大社造です。社殿も良かったのですが、それに加えて境内の雰囲気が最高でした。「神社たるもの斯くあるべし」って感じ。

ほとんど共通点は無いはずなのですが、何故か諏訪大社の上社本宮を思い出しました。

 

続いて、社務所で道を教えてもらい、黄泉比良坂に行きました。揖夜神社から自転車で5分強ぐらいです。レインコートを着ていましたが、土砂降りだったのでズボンはもうびしょ濡れに。

黄泉比良坂に行くまでの坂が絶妙にきついので、疲れたくない人は車で行った方が良いです。駐車スペースもあります。

どうやら、映画のロケ地として使われたらしいですね。天国への手紙を書くための便箋とか置いてあって素敵スポットみたいになっています。しかし、悪寒がしたので早々に退散しました。(雨で濡れてて物理的にも寒かった)

 

帰りに揖夜神社に寄ったら、社務所おばおねえさんにココア(コーヒーだったかも)をいただきました。それから、クッキーと飴も。

こういう心遣いは本当に有難いですよね。人の温もりってやつを感じました。

あの人がこれを読むことはほぼ100%ないですが、この場を借りて改めてお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。

それで、ココアを飲み終わって駅に戻ろうとしたら、雨が止んでてちょっぴり感動しました。

皆さんもあっちの方に行く機会があれば、是非立ち寄ってみてください。松江駅から車で行けばそれほど時間はかからないはずです。

 

 

美保神社は、島根半島の東端に位置する美保関にあります。

こちらもまた、車を使わない場合アクセス悪いです。多分、二度と行くことはない。

松江か境港から、路線バスに延々と乗ることになります。レンタカーを借りられれば、境港から20分ぐらいです。

因みにこの近くには、あのCMで有名なベタ踏み坂こと江島大橋があります。松江と境港をつなぐ国道431号線も、見た感じ結構急でした。

 

美保神社は、本殿に建物が二つ並ぶという珍しい構造をしています。こんな社殿は、多分全国でここだけです。比翼大社造と言うらしいですね。なんか格好良い。男千木と女千木が並んでいる光景が印象的でした。

美保神社では、毎日2回、巫女さんの舞が見られます。勿論無料です。

僕は楽器の方に興味があったのですが、見ながら『君の名は。』の三葉の舞を思い出しました。因みに楽器は、デカい太鼓(名前は知らない)と横笛(多分龍笛)を使っていました。演奏は(ry

 美保関神社のさらに奥には、美保関灯台があります。(2kmちょっと先)

車だと3分で着きますが、歩くと30分近くかかります。上り坂です。

灯台は外から見るだけで、他にはレストランがあるぐらいです。そういえば、美保関事件(軍艦の衝突事故)の慰霊碑がありました。晴れた日には、隠岐諸島も見えるみたいです。

 

 

それから、日御碕(島根半島の西端)に経島という島があります。

島に小さな鳥居と祠が立っているのですが、これがまた美しいです。ちょうど雲間から太陽の光が漏れていて(薄明光線ってやつ)、この風景を見たときには「神様もいてもいいかも」と思いました。

日御碕では灯台に登れます。階段が急な上にかなり段数があるので、覚悟して行きましょう。

海岸の柱状節理も見事でした。

 

 

島根県の中だと、松江城もおすすめです。天守登れます。一番上からは、360度見渡すことができます。ただ、高所恐怖症気味の僕には怖かった……

石見銀山は、正直、観光地としては微妙。

 

 

さて、島根観光のアイテムとして「縁結びパーフェクトチケット」というものがあります。3000円で、3日間色々乗り放題+多数の施設で割引。

ちょっと割高じゃね?とか思った貴方、それは大きな誤解です。このチケットは、そこらのフリーパスとはレベルが違う。

このパスでは、松江市営バス一畑バス一畑電車が乗り放題になります(他にもありますが、主に使ったのはこの3つ)。JRでは使えませんが、JRなんて山陰じゃ無いも同然です。松江・出雲間は、一畑電車で行けます。電車でも使えるってのは、地味に嬉しいポイントですね。

また、2日しか滞在しないからと躊躇する必要はありません。田舎なので、1時間もバスに乗れば片道700円近くします。レンタカーを使わない場合は、移動手段はほぼ確実にバスのみです。午前と午後で2箇所離れた場所に行って、後は夜に夕食とかホテルへの道でバスに乗れば、1日でも元は取れます。

さらに、空港連絡バスでも使えます!これ片道1000円以上しますからね。往復だけで半分以上元取れます。

そして、このチケットを提示すると主要な施設のほとんどで団体料金になります。もう、これで元取れない方がおかしい。

石見銀山の方に行く場合には使えませんが、松江から出雲までの島根県の東半分では、移動時にバスほぼ乗り放題状態です。僕は、3日間、水戸黄門の印籠のごとく使いまくりました。多分、1万円分近く使ったと思う。

あまり使っている人を見かけませんでしたが、島根に行くならこれを買わない手はありません。

縁結びについてはどうだか知りませんが、何故こんなにお得なチケットを売っているのか分からないぐらいお得です。

これ名前が良くないですね。あまり買われてしまうのも困るのかもしれませんが、「縁結び」とか入ってたら躊躇う人もいます。何より、パーフェクトなんてレベルではありません。

もう、島根スーパーウルトラハイパーミラクルチケットとかに名前変えた方が良いと思う。

 

 

さて、地方に旅行に行くといつも思うのが、東京と地方の格差です。

一面田んぼしか見当たらないような田舎はそれで良いと思うのですが、その地域で中心部となっているような場所でも、東京に慣れた人間としては田舎感が否めません。「これで県庁所在地ですか?」みたいな。もし東京以外に同じレベルで大都市と呼べる場所があるとしたら、大阪ぐらいでしょう。

ヨーロッパの先進国ではもう少し都市間の格差が少ないイメージがあるのですが、やはり日本の東京一極集中は凄まじいものがあります。発展途上国とか多分こんな感じですね。

 まあ、かく言う私も半分田舎みたいなところに住んでいるので、あまり人のことは言えませんが。

そういえば、田舎のコンビニって凄いですね。レゴとかトミカまで売っているのを見たときには衝撃を受けました。

それから、松江に"âge"という名の理容室がありました。てっきり造語か何かだと思っていたのですが、これフランス語だったんですね。

 

それでは。

ルクレティウスの思想

もう9月ですね。8月は自動車学校に通っている間に終わりました。

そういえば、免許取れました!ずっとMTでやってると、ATとか超ヌルゲーですね!また1人、慢心ドライバーが世に放たれたわけだ。

振り返るまでもなく、夏らしいことは何ひとつしていません。どこかの花火大会に行こうと思っていましたが、結局行かなかった……

でも、スクストで花火見たし!しかも、女の子と2人きりだったし!プレーヤー猫だけど。

 

 

さて、ハイスペックぼっちに関する記事とか言いつつ、その前に書き忘れていたことがあったので、先にそちらを。 

今回は、共和制ローマの詩人兼哲学者、ティトゥスルクレティウス・カルス(Titus Lucretius Carus)のお話です。

この記事で参照にしたのは、『万物の根源/世界の起源を求めて』(塚谷肇訳、近代文藝社)です。買うと高いしそもそも入手困難なので、図書館で借りましょう。岩波文庫(『物の本質について』)の方なら入手しやすいと思うので、買うならそちらをどうぞ。

比較的読みやすいので、哲学書だと思って身構える必要はそんなにないです。

なお、私は前述書を軽く一周しただけなので、正確さとか専門性を求めている方は他のページをどうぞ。

果たしてそんな人間がいるのかは疑問ですが、ルクレティウスの思想を手軽に知りたいという人には、少しは役に立つと思います。 

 

Wikipedia(ルクレティウス - Wikipedia)を見ていただければ分かりますが、彼について分かっていることは多くありません。そこにリンクが貼られているスタンフォード哲学百科事典とか見るともう少し色々書いてありそうだし、Wikiを編集する人間に詳しい人がいないだけの可能性もありますが。

そして、彼の著書は前述の1冊しか残っていない(日本語版は他にもいくつか出版されています)ので、これを読むだけでルクレティウス通のフリができちゃいます!

 

 さて、彼の思想を一言で表すならば、「原子論」に尽きるでしょう。エピクロス崇拝してるし。とか言いつつ、デモクリトスエピクロスもきちんと知りません。すまぬ。

しかし、彼等を知らなくても分かるぐらいはっきりと、『万物の根源』にはひたすら原子論的な内容が書いてあります。

前掲書の章立て*1はこんな感じです。

第一部 万物の根源を求めて

第二部 原子の存在と運動

第三部 精神と魂の機嫌を求めて/死の恐怖の克服

第四部 イメージ、感覚、愛の機嫌を求めて

第五部 世界の起源を求めて

第六部 自然現象/天災と人災の起源を求めて

 色々書かれていますが、8割方原子論です。

彼は、世界が「実体空無」(p.37)から構成されているとした上で、「さらに実体にはその構成要素が存在する」(p.37)とします。

この「構成要素」が、今で言う「原子」ですね。当たり前ですが、メンデレーエフ周期表と同じように分類されているわけではありませんよ?概念として、原子のようなものだったという話です。

 

同書では、この「構成要素」を用いてあらゆる物事を説明しようとします。

突飛なことを言っていることも少なくはありませんが、頑張って合理的に説明しようとしている感じは伝わってきます。

それに、2000年以上前にそういう考え方をしていた人間がいたということは、驚くべきことではないでしょうか?

尤も、褒めるべきはデモクリトスの方かもしれませんが。

 

具体例を出しながら各章の内容を説明する気力は無いので、理論の説明はこれぐらいで。興味持った人は、取り敢えず読んでください。そんなに難しいことは言っていない(と思う)。

この作品は、明らかに途中で終わっています。時間の流れの中で失われてしまったと考えるのが妥当でしょう。

しかし、正直残りの部分はあっても無くても大して変わらない気がします。

ルクレティウスで大事なのって、思想の内容そのものよりも姿勢だと思うのですよ。(←そう言って内容の理解不足を誤魔化す)

 

『万物の根源』は、メムミウ*2に向けた本という形を取っています。

そこで彼は、「宗教の迷妄による恐れや精神の闇」(p.27)を克服するべきだと言っています。つまり、「なんでも盲目的に神に帰するのはやめろ」ってことです。

この姿勢は、「無から神々の力によって生みだされるものなどなにもない」(p.27)という言葉に象徴されているでしょう。

決して、神の存在を否定しているわけではないのです。「天空、神々の本質までをもつらぬく体系的な法則」(p.24)と言っていますし。

ただ、何もかも彼等が作ったというような非合理的な信仰を否定しているのです。

当時主流だったキリスト教ローマの多神教服従するのでは無く、何事も自分で考える姿勢

それが、最終的にはエピクロスの求めた心安らかな人生につながるのです。

これこそが、ルクレティウスの真髄なのですよ。まあ、哲学者と呼ばれるような人々はみんなそうしてると思うけど。

 

 

最後に、ハンドルネームについて書いておきましょう。

以前にも書きましたが、"Lukrez"はルクレティウスのドイツ語名です。

でも、実はWikipediaで哲学者の一覧から適当に選んだだけで、彼を選んだのに大した理由なんてないんだよね……ゼロから自分で考えるの面倒だったし。

そのままだと面白くないと思ってドイツ語版ページ見たら丁度良い感じにドイツ語名が載ってたから、それをいただいてこうなったわけで。

この記事で偉そうに色々書いたけど、それまではルクレティウスなんて名前すら知らなかったし、『万物の根源』もブログ作ってから読んだだけだし。

彼みたいな思想は嫌いじゃないですよ。でも、完全に同意できるかというとそうでもない。

 

それでは、今回はこの辺で。

*1:原典にあるものではなく訳者がつけたもの

*2:ルクレティウスの友人らしいが詳細は不明

『聲の形』 地上波初放送です!

明日(厳密には今日)8月25日、21時からEテレで映画聲の形が放送されるとの情報を入手しました。地上波初放送です!

せっかく受信料を払っていますから、時間がある人は是非観てみてください!

観て後悔することはないと思う。

 

 ということで、今回は『聲の形』の話です。

Eテレで観る前にこの記事を読んでおくと、少しは映画鑑賞が深いものになるかもしれないよ!

ストーリーにはあまり触れないし、 ネタバレ云々って作品でもないと思うので、安心してお読みください。

 

さて、『聲の形』の漫画は、元同志Aに激推しされたこともあって単行本を揃えました。

彼から紹介されたのか、自分で見つけたのかは覚えていませんが、そこのところは大して重要じゃありませんね。

因みに、作者の大今良時を知ったのは、『マルドゥック・スクランブル』のコミカライズだったと思います。当時は、男性だと思ってました。この名前を見て、女性だと分かる人がいたら凄いと思う。

 

漫画を読み終わった直後にも感想を書いたのですが、当時の記録はどこかにいってしまいました。今から全巻読み返す気力も無いので、この記事は映画メインでいきます。

 

映画化された時は、元同志Aと2人で観にいきましたね。当時のことなんて全然覚えてないけど、なんか懐かしい。

この記事で書くのは、当時映画館で観ながら気付いたあることについてです。我ながら、この発見は見事だったと思う。

 

 

 

それでは早速本題に、と言いたいところですが、その前に西宮硝子について少し書きましょう。

 

硝子ちゃん、本当に可愛いですよね。

彼女が天使であるということは人類普遍の原理であって疑いようのないことなのですが、彼女について未だに分からないことがあります。

 それは、彼女のあの性格の根底にあるものは何なのかということです。

言い換えるならば、すぐに謝るような態度は素でやっているのか、それとも(聴覚障害を持つ者としての)処世術なのか、ということです。

 

当時、元同志Aは純粋さ故だと言っていました。それも、「障害が成したもの」ではなく、「彼女の本質」なのだと。そこに理由を探したって、見つかるようなものではない、というわけです。

彼曰く、「寧ろ普通は障害があったら捻くれるし、世界に対して絶望する」そうで。

障害があることで親からたくさんの愛情を受けて、優しくなるという可能性もあるとは思いますが、世の中そんなに美しくはないわけですね。

そして、「硝子」という名前は「純粋さと儚さの象徴」なのだと言っています。

 

 

対する僕の意見が、こちらです。

あれは純粋さなのかなあ。元々の性格は確かにあるんだろうけど、それ以上に後天的な要素が強い気がする。寧ろ、諦念(諦観って言っていいのかは分からない)なんじゃないだろうか。先天的な障害を抱えている人間として、世界に絶望する時期はとっくに過ぎていたんだと思う。完全にゼロとは言わないけど、そうじゃないと生きていけないもん。

ガラスだから、周りを傷付けるものという意味もあっただろうね。同時に

それ自体の脆さ(儚さ)も。なかなか良い譬え。

 

(以下、引用は殆どLukrezのメールから)

ここに書いた通り、彼女の根底にあるものが純粋さだとして、それだけで生きていけるとは到底思えないんですよ。

とはいえ、当時の僕も揺れています。

作中では描かれてなかったけど*1、硝子の父親がいなくなった原因が硝子にある可能性は十分にあると思うんだよ。当然事故とかで死んでる可能性もあるけど。その結果?、祖母、母親、結弦がそれぞれのやり方で硝子を支えていくわけじゃん。

と、ここまで書いたところで、俺が間違ってる説が浮上してきた……この子結構ぬくぬくと生きてね!?小6まで何してたのか気になるな。

放課後の将也との殴り合いでの、「将也も頑張って」(だっけ?)も、諦めから出てくる言葉じゃないね……

でも、小学生の彼女が自分の置かれている状況を一切感知していなかったとは思えない。本当に理解していなかったのか、周りの善意を信じていたのか。

 

因みに、元同志Aから「果たして諦めの先に優しさがあるのか」と問われたのですが、これはあると思います。

当時もそうでしたし、今も答えは変わりません。

「諦めの先には、穏やかな悟りにも似た境地があるのだよ。それは、ある者にとっては優しさ。」

ということです。

詳しい話は、ぼっち絡みのテーマですると思うのでまた後日。

 

純粋さの話に戻りますが、まず何か1つのものだけに答えを見出さそうというのが無茶なんでしょうね。人間はそんな単純じゃない。

 

ただ、純粋さも答えの1つなんだとは思います。

僕が漫画を読み終わった後の感想として「(登場人物たちが)愛しかった」という主旨のことを言っていたようなのですが、それも「純粋さ」があったからこその感想だと思います。

(「愛しかった」というのは)実際に上から目線。俺にも、純粋な時代はあったはずだから。かつて自分が通った道として、懐かしむような気持ちもあるし。

アニメとか観てこういう気持ちになると、年取ったんだなあって思います。いつの間にか、登場するキャラが殆ど年下ですからね。

 

 

さらに話は逸れますが、付近で興味深いことを書いていたので、ついでに引用します。

あの観覧車での告白は、西宮硝子が初めて将也以外に本心をぶつけるシーンなんだよね。それを突き放してビンタかます上野もすごいが。

上野の糾弾は非常に的を得たものだったし、それを西宮硝子が、悪気がなかったとは言え、やった(やらなかった)っていうのは興味深い。障害者と健常者の絶対的な距離ってのがそこには存在する。

 

きちんと覚えていないのですが、この「観覧車の告白」は多分「私は私が嫌いです」っていうやつです。

元同志Aは、「この自己嫌悪は、単なる『やり場の無い自己嫌悪』ではなくて、『自己の変革を望むという背景を持っての自己嫌悪』」なのだと分析しています。

前者は「『もう私なんて〜』みたいなウザいやつ」で、後者は「現状への不満足と今後の発展を望むもの」ということです。

硝子の台詞は、変革(将也への告白)を試みた結果での発言なんですよね。

変わりたい、変われない、でも変わりたい。そんな思いがこもっている気がします。

 

「やった(やらなかった)」ってのは自分でも何のことだか分からないので飛ばすとして、大切なのはその次です。

「障害者と健常者の絶対的な距離ってのがそこには存在する」

これは、漫画を読んでいた時に感じたことです。前回に続き爆弾投下してますね。

それでも敢えて書きますけれど、これは差別云々ではなくて、事実として厳然と存在するものだと思うのですよ。そもそも、差があるから、障害者と健常者という区別がなされるわけですし。

それをまるで何もないかのように振る舞うのは、欺瞞以外の何ものでもありません。これを認めないうちは、真の相互理解だの共生だのは無理だと思いますよ。

微妙に文脈は違いますが、元同志Aに言わせれば、

俺ら(と括られるのは遺憾かもしれないが)みたいに穢れきっていたら、多分適当な妥協点見つけて、表面上は(←これ大事)誰も傷付かないところに落とし込むと思う

でもそれは何も変わってないことに等しいし、寧ろ悪化させてるとも言える

 

(元同志Aのメール)

 ということです。

 

ただ、僕が言っている「絶対的な距離」というのは、ただの能力差とかそういう話ではなかったと思います。

原因はそうしたところにあるとしても、「(互いが)いくら努力したところで絶対に越えられない(交われない)部分があるのではないか」ということです。

これは、何も障害者に限った話ではありません。極端なことを言えば、全ての人間関係に当てはまる。この作品では、それが障害者と健常者という組み合わせだったということです。

硝子が本気で向き合った結果、上野は彼女を叩く羽目になったわけで、恐らく硝子は叩かれた理由を理解できていないんですよ。

そういうものがあるのではないか、と言いたいのです。因みにこの件に関しては、障害の有無以上に2人の性格の差が大きいとは思います。

ただ勘違いしてほしくないのは、「絶対に越えられない部分がある」からと言って、「それを越えようとする努力をしなくていい」ということには直結しないということです。寧ろ、越えようとする努力はし続けなければならないと思います。

「絶対」と言いながら矛盾していますが、そうすることで可能性が生まれるんです。逆に言えば、そうしなければ永遠に越えられないままなんですよ。

 

 

 

かなり話が逸れてしまいましたが、それではお待ちかね(?)の本題に入りましょう!

 

映画館で僕が気付いたことというのは、"a shape of light""the shape of voice"です!

 

後者はお察しの通り英題なのですが、前者については既に映画を観ている人でも「何の話だよ?」って人はいそうですね。

説明する前に、当時の僕のメールを2通貼ります。

 

冒頭で「a shape of light」って出た後、「聲の形」って題が表示されたじゃん。本編終わりにも確か出てたけど、その話は置いといて。

それで、英題も表示されてたんだが、これが「the shape of voice」なんだよね。俺は終わりに気づいてスタッフロールで確認したんだが、これ(aとthe)は狙ってやってると思う。

因みに、海外の翻訳本の題名は「a silent voice」だった。映画の方が内容に合ってると思うけど。

 

theとa、voiceとlightの対比*2。書き忘れてたが、「a shape of light」はサントラの名前。

多分、最初にあったのは英題のthe shape〜の方だったと思う。ここでa shapeとかshapesを使うのは間違ってないけど不適切な気がする。もっと言えばvoicesにすることもできたわけだし、それを考える場合には「聲の形」という題そのものの意味を考える必要が出てくる。ただこれについては、作者がどこかで言ってそうだな。

それで、(後から付いただろう)サントラの題をa shapeにしたのは、英題を意識してのことだと思う。

theは交換不可能なものだけど、aは交換可能である意味蓋然的(必ずしもそれである必要はない)。a shape of lightは、some shape of lightであって数ある中の1つなんだよ。答えは1つじゃない、的な。

どんなに暗い場面でも、京アニクオリティも相俟って背景(風景)は美しく描かれる。ここには、「君たちが気づけていないだけで、世界はこんなにも美しいんだよ」っていう作り手(大人)からのメッセージが込められてるような気がする。まあ背景を綺麗に描くのは当たり前のことなんだけどさ。

 

「蓋然的」の意味が違う気がしますが、細かいことは気にしない。

メールに書いてある通り、"a shape of light"はサントラのタイトルです(これは当時観終わってから調べました)。

僕の記憶が正しければ、映画だと冒頭でこれが出てくるんですよ。それも、『聲の形』というタイトルより前です。

是非、ご自身の目で確かめてみてください。これで違ってたら恥ずかしいな……

 

上述の通り英語版の漫画のタイトルは"A silent voice"ですが、これはあまりに直球だし、僕は"the shape of voice"の方が好きですね。

でも考えてみたら、直訳なのは"the shape of voice"の方か。

 

例によってメールだけで言いたいことの8割近く書いてあるのですが、注目してほしいのは"a""the"の違いなのです!

 

まず、タイトルが"the"であることについては納得してもらえると思います。「伝えたいあの思いの形」ですから、"the"で特定するのは極めて自然なことでしょう。こちらが"a"だと、かなり軽い感じになってしまいます。

 

それでは、サントラの"a"はどういう意味でしょうか。

考え方は色々あると思います。

僕は、"light"を「人生を照らす光」とした上で、「数ある中の1つ」としての"a"なのだ、と捉えました。

例えば、「暗闇の中にいると思い込んでいる将也にも、実は君を照らしうる光はたくさんあるんだよ」ということだと思うんですよ。

袋小路にいると思っていても、実は出口につながる道はたくさんあって、その中の1つを見つけ出せればいいのだと、そういうことです。

だから、「独りで心を閉ざしていないで、世界を見てみなよ」と。

そうしたら、「世界はこんなにも美しいんだよ」と。

これは製作者から将也たち登場人物へのメッセージであり、とりもなおさず観客へのメッセージでもあるわけです。

 

これはかなり将也に寄せた解釈ではありますが、他の人にもあてはめられると思います。

作品に登場する主要(子供)キャラは、主に硝子を中心とする問題に本当に真剣に向き合っていました。彼らなりに真剣に生きてるんですよ。

勿論、それは悪いことではありません。ただ、少しは肩の荷を下ろして気楽に生きてみたら?と言っているような気がします。そうしたら、違った世界が見えてくる、と。

まさしく、大人から子供に向けた、母から子に向けた、温かい眼差しが作品を貫いているような感じがしました。

 

作中良いシーンはいくつもあったのですが、違う意味で印象的だったシーンがあります。

高校場面始まって最初の方の、昼休みに飛行船か何かを見て生徒たちが窓際に集まるシーンです。将也は耳を塞いで俯いていますが、近くに来た生徒が、一応合図(机をコンコンと叩いてた?)を出してあげていたんですね。勿論、将也はそれに気付かないわけですが。

これは、原作には無かったシーンだと思います。それを敢えて追加しているんです。

将也の状況を描くという意味もあったと思いますが、それ以上の何かもあった気がします。

 

 

 

以上、『聲の形』についての話でした。

近々、ハイスペックぼっちをテーマにした一群の記事を書き始める予定です。元々それが、このブログの1番の目的だったので。

2個目の記事で書くとしていた記事のいくつかについても、そこで触れることになると思います。

それではまた。

*1:僕が覚えていなかっただけで、原作には描かれていたみたいです

*2:「狙ってやってる」とはどういうことかという問いに対して

『マブラヴ オルタネイティヴ』タイトル問題 〜 何故「オルタネイティヴ」なのか 〜

やりかけで放置していた『かがやく時空が消えぬ間に』1周しました。唐突にエロゲの話してすみません。

いや〜やっぱりマブラヴって良いですね!惜しむらくは、ジェネレーションギャップ(というか僕が知らなすぎるだけ?)の所為でパロディネタが分からないこと。ジャック・バウアーとか名前しか知らないですし。こういうのが分かったら、もっと楽しいんだろうなあ。

というわけで、今日はマブラヴの話。

 

 

皆さんは、『マブラヴ オルタネイティヴ(Muv-Luv Alternative)』(以下「オルタ」)という傑作恋愛アドベンチャーゲームを知っているでしょうか?

知らない方は、取り敢えずアージュの10周年記念PVを御覧ください。これだけでも、作品の凄さの片鱗を感じ取れるはず。

 

エロゲは星の数ほどありますが、オルタを含むマブラヴシリーズは一生に一作出会えるか出会えないか、というレベルの超大作だと思っています。多分、今後の人生でもこれを超える作品に出会う事はない。

気になった方は、是非購入してみてください。ダウンロード版ならそんなに高くないと思う。全年齢版もあるよ。

 それにしても、DMMとかで短編を個別に販売してくれないものだろうか……

 

さて、作品の内容については様々な知識人の方々が素晴らしい批評をなさっているのでそちらを読んでいただくとして、この記事で扱うのは、何故か誰も触れていないタイトルについてです。

 

いきなり話逸れますが、タイトルと言えば、11話にして漸く『終末のイゼッタ』=『フィーネのイゼッタ』であることに気付いたのは良い思い出です。もう2年前になるんですね。

 

それから、マブラヴシリーズのタイトル問題だと『シュヴァルツェスマーケン』の方がメジャーかもしれません。

ドイツ語で書くとSchwarzesmarkenとなるわけですが、一部で指摘されている通り、文法的に間違っています。一語になっていることはまあいいとして、形容詞の格変化を考えるとSchwarzesじゃなくてSchwarzeなんですね。

しかしこの問題については、マライ・メントライン氏が書かれているように、格好良さを優先した似非ドイツ語ということで片が付いています。

 

 

オルタの話に戻りますが、ある程度英語を知っている人間なら、タイトルを見た瞬間に気付くことがあるはずです。

そう、"alternative" は「オルタネイティヴ」とは読みません!

一部のネイティヴがそういう発音をしている可能性は否定できませんが、標準(辞書的に正しいの)は「オルナティヴ」。このように「タ」にアクセントがある以上、「ネイティヴ」と読むのは少し厳しいものがあります。

因みに、アニメなどでタイトルに"alternative"を用いている作品は他にもありますが、僕の知る限りそれらは全て「オルタナティブ」と読んでいます。「オルタナティブ」って日本語の中で既に使われている気がするし。

何か書いてあるかと思ってオルタの英語版Wikiも見てみましたが、それらしいことは書いてないですね。ここで英語話者のオタク友達でもいれば訊いてみたいところですが、生憎そういう知り合いはいません。

 

それでは、オルタがオルタネイティヴ」と読んでいるのは何故なのか。これは当然気になるところでしょう。

しかし、何故かこの問題に言及している批評というのは見当たらない……

発音が間違っていることを取り上げて扱き下ろしているものなら見たことがありますし、「オルタネイティヴ」を"alternative"と割り切って書き進めているものも知っています。しかし、真面目に「オルタネイティヴ」に取り組んでいるものは見たことがありません。

アニメやゲームの批評系のブログでも、基本的にタイトルってスルーされちゃうことが多い気がします。勿論例外も数多くありますが、オルタのように一見単純なものだとスルーされがち。

でも、気になるものは気になる。

誰もやらないなら、僕がやっちゃうもん!

というわけで、「オルタネイティヴ」の謎に迫りましょう!

 

 

まず、仮説として以下の2パターンが考えられます。

①純粋に間違えた

②何かしらのメッセージが込められている

日本人が作っているわけですし、当然①の可能性もあるわけです。でも、②に決まってるよね!そうじゃないとこの記事終わっちゃうし。

だいたい、実際にどうだったかなんてどうでもいいんですよ。こじつけだろうが何だろうが、意味付けをすることに意味があるわけで。「作者の死」についてロラン・バルトも言ってますからね。最早、作者の意図などどうでもいいのだよ。

製作者側がタイトルについて何か語っているものは見たことがないのですが、何か知っている方がいましたら情報提供お願いします。これで、「ただの勘違いです」とかいう話だったら情けない……

 

 

無下に一蹴するのもどうかと思うので、一応①についても考えてみましょう。

 

(1)製作陣の英語力

「◯◯は英国の名門△△大学に留学し〜」みたいな情報を求めてWikipediaを訪ねてみたものの、それらしい情報は得られなかった。

気を取り直して。

作中では、随所に英語が登場します。でも、これらに目立った間違いは無い(と思う)。それに、製作にはそれなりの人数が関わるわけですから、その中に1人ぐらいは"alternative"の正しい発音を知っている人間がいるはずです。

ということで、どこかの段階で一度はツッコミが入ったはず!それでも現タイトルになっているということは、何か意味があるということでしょう。

ただ、「こっちの方が格好良いじゃん」で通ってしまった可能性もある……

 

(2)発音に拘っている

 タイトルに注目してみてください。「オルタネイティ」ではなく「オルタナティ」です。つまり、bとvの発音の違いですね。敢えて「ヴ」としているからには、多少は発音に拘っていると考えられるのではないでしょうか?

そうだとしたら、1回ぐらいは辞書引くよね?それでも現タイトルになっているということは、何か意味があるということです。

……

ここまで書いて気付いてしまったのですが、「マラヴ」じゃん!

つまり、"muv"なのに「マ」になってる!

発音に拘ってる説消滅。

やっぱり、「マヴラヴ」より「マブラヴ」の方が見た目のバランスは良いもんね。

あれ、結局格好良さの問題なんじゃ……

 

(3)作品のレベル

オルタをどう評価するかは人それぞれですが、僕の主観でも、売上とかを考えても、オルタの作品としての完成度は極めて高いです。

それだけ作品の完成度を上げておきながら、タイトルで凡ミスを犯すというのはあまりにもお粗末な感じがする。

タイトルは作品の顔ですから、一番(とは言わないまでも)こだわるべきところでしょう。

つまり、こだわった結果として「オルタネイティヴ」が存在するということです。

でも、発音って一度間違って覚えてしまうとなかなか修正される機会がないですからね。日本だとそう頻繁に英語を喋るわけでもないし。

僕にも、数年間"above"を「アボーヴ」だと思い込んでいた黒歴史がありました。

 

 

どこまでも①の可能性を否定できないわけですが、諦めて先に進みましょう。

 

オルタネイティヴ」に何かしらのメッセージが込められているとして、そのメッセージとは何か。

思いつくのは、やはりダブルミーニング(あるいは3つ以上)ですね。

 

まず、「オルタネイティヴ」でそのまま"alternative"の意味が込められていることは疑いようがありません。

"alternative"の意味としては

①選びうるものとしてのもう1つの(あるいは代わりの)選択肢

②二者択一の状況

の2つがある気がします。品詞とか今はどうでもよいのだよ。厳密な意味ではなくてイメージとしてですし、僕は帰国子女でもなんでもないのでこれが本当に正しいのかは分からないのですが……

オルタネイティヴ」はこの両方を含んでいると思いますね。

 

①については、ハード面(作品の設定など)がそうです。

オルタのキャッチコピーは

 

 ――それは、られなかった他なる末。

とてもちいさな、とてもおおきな、とてもたいせつな、

 

ですし、「そして紡がれるもうひとつの未来」(Windows7対応版パッケージ裏)と言っています。

無数のUnlimited世界と、あるいはExtra世界と対を成すものとして、文字通り"alternative"な世界として作品の舞台であるオルタ世界が存在するわけです。

そして、純夏を除く全てのヒロインが純夏の"alternative"です。これは、プレイした人なら痛いほど感じているはず。

 

②については、ソフト面(内容、ストーリー)がそうです。

常にタケルに選択を迫るストーリー展開そのものが、まさしく二者択一の"alternative"と言えます。こんなこと言ったら、人生自体が選択の連続なんですけどね。

常に選択肢が2つとは限りませんが、「2者または3者以上」ってジーニアスに書いてあるし!それに、究極的には「逃げる」か「立ち向かうか」の2つですからね。ただ、決して「逃げる」ことが許されているわけではありませんし、選択から逃げることを許さない(=必ず選ばなければならない)という意味で"alternative"かもしれません。でも、「選択から逃げる」ことと「選択肢として『逃げる』ことを選ぶ」ことは同じか。

選択などと言っていますが、オルタはエロゲにしては珍しい選択肢ゼロの一本道です。多分、プレーヤーに選ばせてたら製作者の目的の半分も達成できないだろうなあ。

 

無理矢理ハード面とソフト面に分けてみたが、やはり無理があった気がする……

"alternative"については触れているブログが他にもあるので、これよりも深い(まともな)考察を読みたい人はそちらに行ってくださいな。

 

 

それでは、この記事の核心である論点に移りましょう。

オルタネイティヴ」に込められたもう1つ(あるいは2つ以上)の意味とは何なのでしょうか。

 

早速結論を述べますが、僕の中での最有力説は、"alternative"を "alter+native" と見る説です。というより、それしか思い浮かばん。

このように区切ると、「オルタ+ネイティヴ」 で発音問題は完全に解決します。「オルタ」じゃなくて「オ(ー)ルター」じゃん、とかそういう細かいことはいいんだよ。

単語の成り立ちとしては、勿論"alternative"は“alternate+ive"なんですよ。でも敢えて、上のように区切ります。

さて、これをどう解釈したものか。

 

“alter”は動詞で「変える」ですね。ラテン語で「別の」という意味もあるみたいですが、ラテン語はさっぱりなのでここではパス。

 

問題は “native”の意味です。素直に考えるなら、「現地人」ということになります。動詞+名詞になるし。作品に当てはめると、「タケルがオルタ世界の人々を変える」という感じですかね。実際に、かなり影響は与えていますし。

ただ、この解釈はタイトルとしてはいまいちな感じがします。タイトルでそんなこと説明されてもねえ……それに、この作品のメッセージとして「他人を変えろ」というような内容のものは感じられません。

 

そこで提唱したいのが、“native”を“nature”の意味に寄せて拡大解釈する説。

一部の辞書で、"native"の訳として「生まれつきの、生来の」(ルミナス英和辞典)、「先天的」(180万語対訳大辞典)が当てられています。それに、"native"の語源であるラテン語の"nativus"に"inborn"とか"innate"の意味があるようなんですね。OALDLDOCEにも似たようなことが書いてあります。

そこで、有り難くこの意味を使わせてもらいます。

これらは全て形容詞としての"native"ですが、「オルタネイティヴ」は "alter + native + ◯◯" の〇〇(名詞)が省略されたものと考えることができます。さらに、the + 形容詞で名詞になるように、"native"だけで名詞的な役割をしていると解釈することも不可能ではないでしょう。

まあ、文法的なことはどうでもいいんですよ。ダブルミーニングにする以上、そっくりそのままってわけにはいかないこともあると思いますし。

それで、"native + 〇〇"  =「生まれつきの◯◯」≒ "nature"(性質、本性)となるわけです!

"alter" と組み合わせると、"alter native" ≒ "alter nature"となります。コロケーションとしてどうなのかは知らぬ。

正直、ここまで来ちゃうと完全にこじつけだと思いますよ。でも、そうでもしないと(少なくとも僕には)説明がつきません。

 

これで答えは殆ど出たようなものですが(プレイした人間ならここから先は読まなくても分かると思いますが)、まだ1つ問題が残っています。

"nature"って何だよ!って話です。換言すれば、誰の(あるいは何の)どのような"nature"を変えるのか、という問題です。

 

ここで考えてほしいのが、âgeは何の為に『マブラヴ オルタネイティヴ』を作り出したのか」ということ。

当然、利潤追求ということもあるでしょう。企業ですから。

でも、それだけでしょうか?

金儲けのためだけなら、純夏を脳髄にする必要はないんです。まりもちゃんを惨殺する必要はないんです。タケルに冥夜を撃たせる必要はないんです。永遠にExtra世界でキャッキャウフフさせとけばいいんです。

 プレイし終えた後、栗林みな実の『マブラヴ』が流れるエンドロールで、あるいは、エンドロールが終わった後のメニュー画面で、貴方は何を思ったでしょうか?

最初は、壮大な物語が一区切りを迎えたことにより放心状態だったかもしれません。疲労困憊していたかもしれません。

しかし、その次に来たものは何だったでしょうか?それは、「BETAを駆逐してやりたい」などという熱情だったでしょうか?「◯◯ちゃん俺の嫁、きゃわわ」などという劣情だったでしょうか?

否、そんなことはないはずです!

きっと、誰もが密かな決意を胸に抱いたに違いないのです。たとえ、それが数時間しか持続しないものだったとしても。

 

オルタは、物語としての強烈なメッセージ性を有していたように思います。

この作品は、ざっくりと言ってしまえば「タケルの成長物語」です。

その中で、製作者は様々なメッセージを送りつけます。くどいほどに繰り返しながら、

Extra世界でぬるま湯に浸かっていたタケルに。Unlimited世界を経て、それでもやっぱりガキなタケルに。そして、画面の前でぬくぬくと生きているプレーヤーに。

メッセージの内容については諸処のブログに任せるとして、最終的に物語はどうなったでしょうか?

クーデターの時殿下にトリアゾラムを射てなかったタケルは、あ号標的の前で自ら冥夜を撃つのです。ついでに言えば、自らのエゴで世界をループさせていた純夏は、新たなExtra世界に悠陽と霞を生み出すのです。

そこに至るまでの過程を、どんな人間にも分かるように懇切丁寧に描いているのが『マブラヴ オルタネイティヴ』なのです。

 

話は逸れますが、こうして書いていると、アンジェイ・ワイダの『カティンの森』を思い出します。

第二次大戦時ソ連ポーランド人を虐殺したカティンの森事件を題材とした映画です。ラスト5分ぐらい淡々と殺戮シーンを描き、沈黙のエンドロールを迎えます。

当時の僕は、「頭での理解も感情的な共感も必要としない、本能に訴える映像」とか

「文化的背景の差を吹き飛ばし当事者意識、地続き感を作り出す」とか表現しています。正直よく分からなかった作品ではあるのですが……

言葉じゃ伝わらないと思うので、気になる方はDVDでも借りてきて観てみてください。ただ、映画館で観ていたらもっと違ったんだろうなあという気はする。

 

話をオルタに戻します。

さて、そろそろ分かったのではないでしょうか。

そう、製作者が「変えろ」と言っているのは、決して「現地人」などではなく「プレイヤー自身」なのです。

つまり、「オルタネイティヴ」は"Alter (your) native !" ≒ "Alter your nature !"。どのような"nature"かは、言うまでもありませんね。タケルを見れば分かるでしょう。そしてこれは、"Alter yourself !" とほぼ同義だと思います。

「俺は変わる必要なんてないぜ!」という人がいたら、それは既に変わったか、自覚すらないかのどちらか。

きっと、変えるべき"nature"は、現代社会(日本)に生まれた以上、人間として生まれた以上、誰もが少なからず持っている性質です。

 

 

ここまでの話をまとめると、成長しなさい!ってことですね。実に簡潔でよろしい。プレイすれば否が応でも感じることではありますが、こんなところにも隠されていたというわけです。

完全に後付けにはなってしまいますが、このように解釈するとすんなりと当てはまるはずです。

 

これで無事タイトル問題は解決したわけですが、今しばらくお付き合いください。

 

確かに "Alter your nature!" ということで良いのですが、そこには少し補足しなければならない点があります。

先ほど僕は、「誰もが密かな決意を胸に抱いたに違いない」と書きました。

では、それで変わったことになるのか。

勿論、そんなわけはありませんね。

そして、御託を並べたところで意味はないということも、作中でタケルが身を以て証明していることです。

彼自身も、このように言っています。

自分だけが不幸だって面して泣きわめいても、 誰かのせいにしても、何も変わらない。

自分だけが信じてる自分の正しさを、いくら人にアピールしたって、何も変わらなかった

まず自分自身を変えて、現実を受け入れた上で、それを変える努力をしなきゃ、いつまで経っても同じ事の繰り返しなんだ

オルタを終えて、「良い作品だった〜」ではいけないんです。「決意を新たにしました」では足りないんです。それでは、プレイしなかったのとほぼ同じ。 いつまで経ってもループを抜け出すことはできません。

実際に変わること、つまり行動を起こすこと。そこで初めて、「変わる」一歩を踏み出したと言えるでしょう。

 

そうは言っても、やはり意志は重要です。

ここで、夕呼先生の言葉を思い出しましょう。

強い意志を持って事に当たりなさい。

望むものを勝ち取るために、全力を尽くしなさい。

人間は、自らの強固な意志をもってしなければ、そう簡単に生まれながらの性質を変える事はできません。(そういうのは環境によって決まるんだ!とかいう話は、今は無し)

変化のために何よりもまず必要なのは、やはり強い意志。そのためにも、自らの立脚点をはっきりさせることは必要不可欠でしょう。

「お前の立脚点はどこだ」というマブラヴシリーズのテーマが、ここに生きてくるわけです。というか逆か。

 

オルタネイティヴ」というタイトルに込められた、「お前のヘタレな性質を変革せよ!」(本当なら「!」を100個ぐらい付けたい)というメッセージ。

そこに含意されるのは、「強い意志を持ってしなければ、生まれついた性質を変えることなどできない」ということであり、「現実に自分自身を変えてみせよ」ということ。

その通りにするのは、とても難しいことです。でも、この世に生まれた以上やらなければいけないことでもあるでしょう。

 

 

 

以上、「オルタネイティヴ」の謎について御理解いただけたでしょうか。

本当にこじつけもいいところですし、未だに単なる間違い説も否定できていません。

でも、この解釈はこれでありなんじゃないかと、我ながら思っています。

マブラヴ」とは何か、という問いもまたありますが、それは別の機会にでも。尚、果たしてそんな機会が来るのかは不明。

 

因みに、「(Extra,Unlimited,Alternativeの)世界の違いがキャラクターの性質を変える」という見方もできますが、これは説明的なので却下で。

オルタネイティヴ計画にも触れるべきなんでしょうけれど、僕の中では今の解釈がしっくりきているので、どなたか余力のある方にお任せすることにしましょう。

 

 

さて、散々偉そうなことを書いた僕はというと、喉元過ぎればなんとやら。

人間、そんなもんです。

ふと思いましたが、自らを変えた上で、ゆくゆくはこの国の、この世界の"native"をも変えて欲しい。

オルタネイティヴ」には、そんな願いも込められているのかもしれませんね。