元 ハイスペック()ぼっちの回顧録

かつてハイスペック()ぼっちを自称していた文系大学生のブログです。「常に観測者でありたい」

『物語の物語』について 〜元型のその先へ〜

どうも。

ついに冬休みに突入しました。冬休みと言っても殆どないのですが、それはさておき。

クリスマス?勿論何もありませんでしたよ。イヴに至っては、家から出たの30秒ぐらい。次のイベントは、初日の出ですね。今年こそ見に行きます。

 

 近頃、日本のIWC脱退が話題になっております。

国際捕鯨取締条約については何も知らないのですが、商業捕鯨が(今後も)認められない(可能性が高い)から抜けるという話は、「満州国認められないから抜けちゃうもん!」と言って国際連盟を脱退した過去を想起させますね。

一つ疑問に思っていることがあるのですが、IWCを抜けたからと言って商業捕鯨が許されることになるのでしょうか

政府は、捕鯨EEZ内でのみで行うとしています。政府が以下のような主張をしているかは別として、理論上は、EEZ内の資源利用について他国からとやかく言われる筋合いはない、と考えることも不可能ではなさそうです。*1

ただ、これで(IWCを抜けることで)商業捕鯨が認められるとするならば、一貫性を保つために以下の主張も受け入れるべきでしょう。*2*3

・パリ協定から抜けたから、今日から温室効果ガス出しまくっちゃうもん!

・NPT*4から抜けたから、僕も核兵器作るよ!

 

核兵器なんて勝手に作ればいいじゃん!」って人もいるかもしれませんが、これらの主張にぶつかれば多くの人々が「ざけんなよ」と言いたくなるでしょう。残念ながら、日本がやっていることはこれと大差ありません。多分。

これらの主張を認められないのに上述のような主張を平然とかますのであれば、己が都合に合わせ立場を使い分けるクズ国家の誹りを免れないでしょう。*5

ここで勘違いしてほしくないのは、僕が捕鯨反対派を支持しているわけではないということです。つまり、「鯨を獲るな」と言いたいわけではないと言うことです。

ただ、現実として、捕鯨禁止が国際的潮流になりつつある(というかなっている)のは政府も認めるところで、最早それがルールとして出来上がりつつある(或いは出来上がっている)のです。多分。

 

本来ルールは当事者間でのみ効力を持つものである以上、他に何も条件が無ければ、これらの主張は認められてしかるべきでしょう。しかし、残念ながらそれが許される時代ではありません。

日本に生まれた人間が「俺日本国籍とか要らないし行政の支援とかも不要だから、刑法なんか守らないし税金も納めないわ」と主張したところで、「何言ってんの?」と思うでしょう?それと同じことです。

同じ地球という惑星に存在する以上、ルールに参加していないからと言ってそれを完全に無視してよいことには(倫理的には)ならないのです。日本国憲法(前文3項、98条2項参照)も国際協調主義を掲げているし。それが嫌なら、地球から飛び出して他の星にでも国家を作るしかありません。

ルールから抜けた後であれば、そのルールで規定された罰則が及ぶことはないでしょう。(流石にそう信じたい)

しかし、参加していなくとも、国際的なルールを破れば国際的批難とやらは免れ得ません。

あとは、それを受ける覚悟があるのか、ということです。苟も先進国を僭称自称する日本が、国際的批難とやらを受けてまで脱退する理由があるのか、ということです。 

因みに、ここで「人から文句を言われる/言われたから自分の主張を変えるのか!」などという議論を持ち出すのは場違いです。理由は自分で考えテネ!

 

 

 

まあ、鯨肉に思い入れがあるわけではないので、相変わらず長い前置きはこれぐらいで。

ここからが本題です。 

さて、昨日から3日間、年に一度の一大イベントが行われています!

冬コミです!

人が多いし寒いし迷っているのですが、多分行きます。

わざわざ行かなくても「と◯のあな」で買えばいいじゃん、などと言っているクラスメートもいますが、と◯のあなには売っていない(だろう)本もあるのだよ。

その名は、 マインドマップで語る 物語の物語』!

英題は"The story of stories"です。とりあえずなんか格好良いです。

この本は、今年の夏コミから「物語三昧」というサークルが販売しているものです。全何巻かは忘れましたが、各コミケ毎に1冊ずつ発行していく、的なことを書いていた気がします。

monogatarinomonogatari.amebaownd.com

公式サイトでアナウンスとかも無いから、てっきりこの冬はもう出さないのかと思っていましたが、コミケのカタログを見たらちゃんと載っていました!

まあ、皆さんお忙しいだろうし。更新されてないのは、仕方ないこと……だよね……。

 

僕はこのサークルの回し者ではないので宣伝はこれぐらいにしておいて、この記事では、夏コミで買った1巻に関係する話を書きます。

因みにこの本はネットラジオの講義をまとめたものなので、お金を払いたくない人はyoutubeで探せば聞けると思います。しかし、全部聞こうとしたら何時間かかるかは分かりません。守銭奴の僕が夏コミに出向いてまで本を入手した背景には、そうした事情もあるのです。 活字の方が見やすいし。

 

 

まず、読んでいない人のために、軽く内容を説明しておきます。

この本は、別売り*6マインドマップ*7の解説書です。

『物語の物語』というタイトルの通り、(主に)戦後日本のサブカルチャー作品が織り成す物語を俯瞰するものになります。

(同時代の)諸作品のストーリー展開には一定の共通性があり、それが物語の「元型(アーキタイプ)」です。これは、ストーリー展開の雛形のようなものですね。諸作品のストーリー展開の根底には、この「元型」があるのです。

「元型」はユングの言葉ですが、ここでもユングの言葉を借りるなら、物語の「元型」とは、「集合的無意識において人類レベルで共有されている物語の型」ということになるでしょう。

この「元型」がいかなる変遷を辿ってきたのか、を追うのが「物語の物語」になります。*8

※1/2追記

と思い込んでいたのですが、2巻を読んだら↑の解説は間違っている気がしてきた……

まず、神話が物語の元型として挙げられていたのは多分間違いないです。

ただ、その後、同時代の作品間に見られる共通の物語(上で書いた「元型」、いわば共時的な横の繋がり)の変化を追うというよりは、具体的な作品に着目している気がします。

つまり、ある作品が問題を提起してそれに対して他の作品が答えを示す、みたいな作品間の(いわば通時的な縦の)繋がりを追っている。点と点を結んでいく感じです。

 

「何言ってるのか分からん!」とか「具体的な内容を示せ!」という人のために、3行でまとめました。←1回やってみたかった

読んだのは4ヶ月ぐらい前ですし、記事のためだけに改めて読み返すのは面倒なので、正確性は一切保証できません。

 

少年は竜退治、少女はお姫様に憧れる
(竜退治で)敵も味方もインフレ→敵:お前ら(=人類)こそ悪じゃん!
味方:知らんけど、取り敢えずあんた(=敵)は倒しとくわ

 

はい、余計に訳が分かりませんね。まとめどころか、本文の内容に沿っているかどうかすら怪しい。

本にはもっと色々な話が書いてあるので、知りたい人は自分で読んでください。(結局そうなる)

 

因みに、この「人類こそが悪なのではないか」という問題は、本の中でも難題として語られています。それに対する答えとして書かれているのが、『風の谷のナウシカ』や『寄生獣』で示された「べつにいいじゃん!(超訳)」というものです。

これを読んだら、(少なくとも3人に1人ぐらいは)こう思うでしょう。

「いや、それ答えになってないじゃん!」

僕もそう思った。便利だし自分でもたまに使う手法ではありますが、他人に言われるとつっこみたくなる答えです。

Q. 神の存在は証明できるか
A. 神の存在は証明されるべきものではなく信じるものである 

これ↑と似たようなものですからね。

しかし皆さん、安心してください!

この問題をスルーしているようではよく売っている怪しい本と同じレベルということになりかねませんが、そんなことはありません。本の中の次回予告に、続巻で正面からこの問題に答えた物語について扱うと書いてあります。流石。

ということで、続きに期待することにしましょう。

 

 

 

さて、この本では触れられていない(そして、恐らく今後も触れられない)問題があります。

神話(アーキタイプ)のアーキタイプとは何なのか。 

テーマが変わってくるので、本でこの問題を扱っていないのは自然なことでしょう。

しかし、せっかくなので、ここではこの問いに一つの答えを与えたいと思います。

この問いが何を言いたいのかは分かりますよね。各地の神話に共通性が見られるのは周知の事実で、神話の分類も行われています。それでは、全ての神話の元となるような型はないのか、ということです。

ここで書くのは、大学の講義で聞いてきたものです。そもそも潜っただけできちんと授業を受けたわけではないですし、数回の授業で教授が伝えられる内容には限界があるので、多少無理があったり一面的であったりすることは否めませんが悪しからず。

 

 

……ということで本当はここから詳細な説明をしていくつもりだったのですが、時間の都合で取り敢えず結論だけ書いておきます。詳しい話は、時間がある時にでも別の記事で書きます。多分。

 

それで、「神話のアーキタイプとは何か」という問いに対する一つの答えは、「他界との交流」です。

流石にこれだけだと訳が分からないと思うので、少しだけ説明。

「他界との交流」とは、「他界に行き、他界から帰る」ということです。キリトがSAOの世界にダイブして、団長倒してリアルに帰ってくる、みたいな感じですね。

神話における他界の典型は、「死者の世界」です。生者の世界から死者の世界に行き、再び生者の世界に戻ってくるという話は、どの神話にも必ずあるでしょう。パッと思いつくのは、日本書紀(だったと思う)のイザナギイザナミに会うために黄泉の国に行く話です。

こうした他界との交流は、全ての物語の元型になっているのです。(と授業では言っていた)

 

そして、こうした冒険をする存在が「シャーマン」です。

彼等シャーマンには、ある特徴があります。それが、跛行です。 

踵を傷付けられたオイディプスは正にその典型と言えますが、シンデレラや浦島太郎も、跛行に類する特徴を持っています。彼等は、いずれもシャーマンなのです。シンデレラがシャーマンとか言われると、イメージが崩れますが……

二足で直立している人間に比べ、跛行している人間は大地(=動物の世界、死の世界)に近い。そのため、彼等は(通常の人間には行くことのできない)他界に行くことができます。オイディプススフィンクスの問いに答えられたのも、跛行するシャーマンだったからなのです。

 

 

それでは、何故「他界との交流」が神話のアーキタイプなのか。

授業では、この問いについても答えが与えられていました。

元々神話と物語が必要なのは、「人間存在の矛盾を認識するため」です。(と授業では言っていた)
矛盾とは、生と死、魂と身体、自然と文化、などを指します。
シャーマンは、これらの矛盾する2つを結び付けます。しかし、それを再び分離するのも彼等の役割です。矛盾するものがくっついたままであってはいけないのです。失われたつながりを回復し、もう一度切り離す。それによって、両者の関係を再構築し、適度な距離を取ることで秩序を回復します。この「適度な距離」を探し求め、人々は様々な神話を生み出してきました。 

そして、秩序の回復に成功すれば、物語はハッピーエンドになります。一方、それができなければバッドエンドです。だからこそ、オイディプスは死なねばならなかったのです。

 

 

以上、神話の元型についてでした。

本当はもっと詳しく説明した上で、ここからまたアニメの方に話を戻したりとかしてみたかったのですが、その時間が無いのでこれぐらいで。

本当なら全部書いてから公開するべきなんでしょうけれど、コミケが終わってから紹介したんじゃ遅い気がする。

ペトロニウス*9のあとがきについても、書きたいことがあったんだけどなあ……

 

 

 

時間が無い、時間が無いと言っていますが、言い訳をするとですね、先日紹介した同滑車付きの弓をレゴで試作していたんですよ。


ギミックは予定していたものの8割程度は作れました。勿論、輪ゴムを使ったもので威力は殆ど無いです。
ただ、強度計算とかせずに*10ロマンを求めて無駄に大きくしてしまったせい*11で、ハンドルがリムの重さを支えきれないという欠陥が……

弓を構えることすらできません。(そんなことしたら多分折れる)
とりあえず試射して動きを確かめたいので、他の材料で補強しようと思います。
それから、同滑車を導入するとなるとかなり弦を引かないといけないことを改めて感じました。バネを強くすれば引く距離は減るのですが、それだと見た目的にマイナスです。
目下のところこれが一番の課題ですね。

 

 

それで、コミケが終わってからも、レポートとかやるべきことが色々ありまして。(本当は、レゴで遊んでいる場合じゃなかった)
それから、4月前後の新人賞ラッシュに向けて小説を少なくとも1本仕上げたいので、更新速度は著しく低下すると思います。予備試験の勉強もあるし。

 

 

それで皆さん、良いお年を。

*1:実際には、海洋生物はEEZに関係なく移動する以上、そもそも「口出しされる筋合いはない」という主張がおかしい。

*2:いずれの問題についても様々な国際的取り決めがあると思いますが、(詳しく知らないし)分かりやすくするためにそれぞれ1つだけ名前を挙げました。

*3:捕鯨と温暖化・核兵器問題では質が違う!」などという批判のために一応書いておきますが、商業捕鯨を禁止するというルールがあったとして、その是非について論じるつもりはありません。ただ、世界的な風潮として捕鯨を禁止する流れであることは疑いようがないでしょう。

*4:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons 核拡散防止条約

*5:現実的な話をすれば、立場を使い分けるのは国家に限らずよくあることで、こんなド正論みたいなことを言う人間の方がおかしいとも言える。

*6:マインドマップと1巻がセットで1000円でした。

*7:神話から現代の最新作までの膨大な作品(物語)の繋がりを表す。とにかくデカい!そして、字が小さ過ぎて読めない……

*8:本では物語の元型として神話が出てきて(不変かつ普遍の物語としての元型たる神話)、そこからいかに物語が発展していくか、という話でしたが、このように元型を「時代と共に変化するもの」として捉えてしまってもよいと思います。この場合は、元型の元型が神話ということになりますね。

*9:「物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために」というブログを書かれています。上で紹介したサークルの名前はここから来ていたはず。僕が『物語の物語』について知ったのも、この方のブログからです。他にも『物語の物語』に関わっている方は何人かいらっしゃるのですが、他の方のブログは読んだことがありません……取り敢えず、全員凄い人(だと思う)。

因みに、夏コミに行った際にサークルの方々には会っているのですが(その中にペトロニウス氏がいた可能性もあるのですが)、誰が誰かということは一切把握しておりません。会ってみたいという気持ちもある一方で、会いたくないという気持ちもある。本物に会っちゃうと、自分の中で勝手に作られたイメージとのギャップにがっかりする可能性(←本人に対して失礼)があるんですよね……「僕の夢を壊さないで」みたいな。ということで、今回も買うだけ買って帰る予定。

*10:そもそも、そんな高尚なことはできない。

*11:実を言うと、同滑車を使う場合大きくしても威力に影響はない。(寧ろマイナス?)

ある程度の威力がありながら小型化できる(はず)というのが、メリットの一つ。

元同志Aに遭遇した件

タイトルの通りです。割としょうもないことですが、僕の中では感動の出来事だったので記録。

 

珍しく(というか初めて?)クラスメートと遊んだ帰り道、8ヶ月ぶりぐらいに元同志Aに遭遇しました。

あれだけ会うことが無かったのに、こうもあっさりとという感じです。(まあ、連絡は取ろうと思えばいつでも取れる)

後ろから声かけられて、一瞬誰かと思ったら彼だったという。彼のことを忘れていたのは僕の方だった。多分、僕が彼を見かけたとしても声なんかかけなかったし、この辺は人間性の違いですかね。

彼は時々僕のことを「先輩(若干煽り入ってる)」呼ばわりしていたのですが、これも物凄く久しぶりに聞いた気がする。

 

前の記事で触れたばかりだったし、今回の出会いは運命みたいなもの感じました。人付き合いするとこういうこともあるのかと。

これ、小説のネタに使えそう。
まあ、その帰り際というのは、遊び終えて団欒しているクラスメートをよそに、gone with the wind的な感じで即行で帰った帰りです。やはり、我が道は間違ってなどいなかった。

 

正直、彼と会うことについては色々と複雑な思いがあったのですが、突然過ぎていつも通りの塩対応*1をしてしまいました。

どうやら彼は充実した大学生活を送っていらっしゃるようで、忙しいらしく、その場で二言三言交わして別れました。

 

来年の早い時期に改めて話す機会ができそうなのですが、正直今の状態で会うのは気が引けるというか、なんか嫌ですな。

とりあえず、僕も彼女を作らなければ*2 ←彼女をアクセサリーか何かとしか思っていないやつ

ぼっちとか、そんなことは今はどうでもいいんだよ。

クリスマス・イヴに、お一人様女子とか釣れないかなあ。 ←その度胸が無いやつ

サンタさん、俺に彼女をくれ! ←無茶振り

 

因みに、社会人彼女募集中です。変態上司の愚痴とか聞くから、私はヒモになりたい。この話を昔元同志A*3にしたら、「正気か!?」みたいなことを言われた。

 

しかし、クリスマス明けに試験があるので、クリスマスに彼女は難しそうですね。残念。

*1:彼は僕のことをこの世界で2番目ぐらいによく知っている人間なので、多分これについては最早何とも思っていないはず

*2:彼には、可愛い年下の彼女がいる

*3:彼は年下派である

このテクノロジー時代に、敢えて文系に進むのは何故か

どうも。

ようやく、数ヶ月前に予告した記事です。

改めてゼロから書くの面倒だなあ~と思いながらメールを漁っていたら、見つけちゃったんですよ!


突然だが「いかにしてLukrezは文転するに至ったのか」を連載する気になった。

 

(Lukrezのメールより。以下すべて元同志Aとのメールから抜粋。特に記載がなければLukrezの文章。)

 

ありがとう、俺!

 

 

まあ、要は言い訳だな。今のうちにまとめておいた方が、後々便利だと思う。絶対にこの選択を振り返る時は来るから。そしてその時に、泥沼に嵌まりたくはない。

 

 

どうやら、当時の僕はかなりの先見の明を有していたようです。とはいえ、まさかブログで晒すために振り返ることになるとは思っていなかったでしょう。
ということで、記事の半分はメールのコピペです。すまぬ。

 

 

さて、皆さんは本庶佑氏を覚えているでしょうか。少し前に話題になった、ノーベル生理学・医学賞を受賞した方です。

テレビでやっていた話によると、進学選択で医者か弁護士か迷った時に、医者の方が多くの命を救えるという理由で医学の道に進んだんだとか。(うろ覚えなので間違ってたらごめんなさい)

確かに、そういう考え方も一理ある。

それに現代は、AIに仕事が奪われると言われている時代ですからね。文系は仕事無いという話もあるし、弁護士も将来AIに代わられるなどと言われているみたいです*1。文系不要説もあるとかないとか。

素人考えだと、「寧ろ手術とかAIにやらせた方がいいんじゃね?!」と思わないこともないですが、とにかくそういう時代です。

 

早速話が逸れて恐縮ですが、本来テクノロジーって楽するために発展してきたんじゃないんですかね

つまり、AIとかロボットって人間の代わりに働かせるために作ってきたんじゃないんですかね。古代ギリシャの奴隷みたいなものです。勿論、それだけではないと思いますよ。でも、もし必要な仕事を全部代わりにやってくれるとしたら、空いた時間で人類は他の活動に勤しむことができるわけで。古代ギリシャではそうやって民主政が育まれたわけですからね。多分。現代で考えれば、学問でも遊びでも睡眠でもやり放題になるはずで、そうしたらみんな幸せになれるんじゃないの?働き過ぎとか言ってるんだからさ。

だから、AIが仕事やってくれるんなら、それは喜ぶべきことなのではないかという気もする。ただ、中途半端に取って代わられるとお金が稼げないって話になりますからね。喜べるのは、随分先のことになりそうです。

 

話を戻しますが、AIに取って代わられるなどと言われると、「それじゃあ何のために法学部に行くのか」という話になるわけです。

ただ、法学部云々の前に、まず文系に進む意味というものを考える必要があるでしょう。

 

今の社会では、「数学ができないから文系」みたいな風潮が強い。だから、理系=有能文系=無能、みたいなイメージが(少なくとも僕の中には)あるんですよね。

当時担任に文転することを話した時*2は、「文系科目は独学で学べるけど理系は無理」ということを言われたりして、そこそこ残念がられた(はずの)ものです。

このブログを読んでいて、「何故ハイスペック()な人間が文系に進んだのか」という疑問を抱いた人もいるでしょう。

因みに、文系に進んだのは断じて数学ができなかったからじゃないぞ!高三の時には行列使ってたし!センター数学は両方満点だったし!今は商の微分公式とかも怪しいけど。

自分でも、「何故文系に進んだのか」と訊かれると、未だにはっきり答えることはできない。

元同志Aにも言われましたが、逃げたという意識も、それに対する後ろめたさもありますから。

自分の中でも、文系であることに対する劣等感みたいなもの*3があることは感じます。こういうのって、当事者が一番気にしてたりするのだが。

そんな劣等感を抱いていた当時のハイスペック()な僕は、「学力が無い文系と教養が無い理系」などと言っていました。

「でも文系も教養無いじゃん」と言われたらその通りですし、そもそも教養とは何か、という話を始めるとそれはそれで長くなってしまうので、ここではなんとなく察していただくとして。

 

 

それでは、本題に入っていきましょう。

まずは、僕のメール。

 

連載だから、思い付く度に書いちゃうぜ!(←順番が逆とか言わないで)
とか言っていたのは良いんだが、結局逃げただけじゃね……
数III面倒だった気持ちが全くなかったとは言えないし。その結果社会で暗記しまくらなきゃいけなくなったのはもう笑い話。
それでもそれっぽい理由を書くと、「遠くの理想より目の前の幸福」っていうこれに尽きるんだな。原点回帰したとも言える。俺の価値観自体が、ここに収束しつつある感じがする。
次回以降ももう少し書きます。

 

 

「結局逃げただけじゃね」

今思えばこれに尽きる気がするのですが、当時自分をごまかすために色々考えました。

以下、しばらく僕と元同志Aのやりとり。

 

 

笑)
それは否めないよ
実際数Ⅲは努力ゲーだから、やらない理由が分からない
暗記はお疲れ
それを言うには君は若すぎるよ
若人には理想を追求する責務がある
収束していいのかい?
極限に発散しようぜ

 

(元同志A)

 

 

収束を「確固たる価値観を持っている」と言い換えると、格好良い感じになる。
いつまでもふらふらしてるわけにもいかんのですよ。
昔に書いた気もするけど、失望も絶望もしたくないというのがある。他人に対しては失望を、自分に対しては絶望を。これも逃げたと言ってしまえばそれまでだけど。
理系に限らず、それなりのレベルのところに行けば、間違いなく周りの人間にもそれ相応のレベルは求める。本人には言わなくても、俺の中ではそういう尺度で測る。これで、周りがアホだらけなんて状況にはなって欲しくない。天才のいない世界なんて、知りたくないんだよ。
勿論、自分に対してもそれなりの基準を課す。でも、絶対に限界に到達する瞬間ってあるじゃん。矛盾しているようだが、あって欲しい。自分が妥協できるレベルまで行けたなら、その時はそれでいいよ。でも、それより遥か下でその瞬間に向き合いたくはない。
結局、俺の満足する状況なんてのはないんだけど、それでも文系に行くことで少しはましになるはずなんだよ。まず、周りに期待はしない。(言い方悪いけど)掃き溜めだから。そして、自分にも多くは求めない。出来る範囲でやれることをやる。「遠くの理想より目の前の幸福」って書いたけど、理系と文系ってそういうことだと思うんだよ。世界を変えるようなことをするのは理系だし、文系はそれこそささやかな幸福を守るだけ。でもそこにも意味があるでしょ?というのが、今の状態なのだ。
どのようなルートを歩もうが、他のルートを体験できるわけじゃないんだから、結局そこで落とし所を見つける(見つけなきゃいけない)のが人生じゃん。

 

何も為さないと決めたわけじゃない。勿論、人生で何かは成し遂げる。それが生きる意味にもなるのだから。どんな規模かってだけ。俺はミクロの世界を変えてみせよう。

 

 

 

確かに
でも「丸く収まった」っていうと凡人感ハンパない
ふらふらしちゃ駄目なのは分かるが、それは丸くなることの理由にならない
俺は尖っていたいからな
他人に対する失望に関しては諦めてる
自分には絶望しないよう足掻いてる
確かに逃げって言ったら終わり
◯◯大学なら天才がいるはず!!
言ってることはわかるよ
以前言ってたことに重なるし
でも、やはり俺は、限界なんていうものは自分がそう思ったときに生じるものだと思っている(人が羽を付けて飛ぶとかは除いてね)
絶対に自分の甘えから生じると思っている
というかそうでなければならない
限界が他者によって示されるなんて屈辱じゃないか?
穿った見方をすれば、他人に「お前はこの程度の人間なんだよ!ここから先は君には永遠に辿り着けないのさ!」とか言われるようなもの
こんなに屈辱的なことはない
そんなことを言われたときには、屈辱に気を狂わせながら、血の滲むような鍛練を積むよ
まあこればっかりは望むものの違い
そして自分で「ここらが俺の限界か…」とか思うとか、そんな自分は殺さなければならない
道を進むときには、そういう甘えによる障害が絶対に生じるんだが、俺はそれに打ち克たなければならないのだよ
成る程ね
別に俺も世界を変えようとしてる訳じゃない
文系でも官僚になれば日本ぐらいなら変えられるぞ
そうだな
何度も言うが、諦めるのはまだ先でなければならない

そうかい
ならば死ぬまでに君の変えたミクロの世界を見せてもらいたいね

 

(元同志A)

 


尖ってなくてもいいから、硬質になりたい。
◯◯大学なら天才がいるってのも、幻想だと思うぞ……
徒競走とかで、どんなに脚動かしても絶対抜けないっていうあの感覚が、限界ってやつだよ。
限界って(それが自然現象とか神であれ)他者の存在があって初めて生まれるものじゃん。
確かに、誰かからそういうことを言われたら腹が立つが。
才能と能力は全ての免罪符になり得る。
無駄な努力を徒労というのだ。

 

マクロを変革できなかったものの辿り着く場所が、ミクロの変革(自己の変革)なのだ。物語において現実性を重視した場合、最も妥当な着地点もここ。

 

 

 

尖れば硬くならない?
脆くなるけど
俺の理想としては柔軟性がありつつも、尖った芯は持ってる感じ
かもな
それは肉体的限界じゃん
それに徒競走に向けて努力してきたことなんて無い
まあ具体例に過ぎないのは分かってるが
他者の存在が限界という概念を産み出したとしても、それは限界を他者に委ねる理由にはならない
度々言うが「諦めたらそこで試合終了だよ」なんだよ
諦めたときが、限界を悟ったときが成長の限界
腹が立つだろ?
そのムカつく存在に自分がなりたいのかって話
無意識下で皆そのような存在に成り下がってるけど、この事に気付けば我々人類はもう一歩高みに近付ける
まあ強烈な意志が必要不可欠なんだが
免罪符に成り得るからこそ、免罪符にしてはならないのだ
無駄かどうかなんて全てが終わった後にしか分からない
下手をしたら死んだ後に評価されるかもしれない
だからこそ、自分で自分を見限ってはならない
最早自分を支えられるのは自分だけなんだから

 

(元同志A)

 

連載などと言いつつ、文転に関するやり取りはこれぐらいです。

この辺りのやりとりは、(当時の)彼の性格が良く出ていて結構好きです。

自分が頑張るのは嫌いだが、頑張っている人を見るのは好きなのだよ。

 

さて、ここに書いてある理由をまとめると

①逃げた

②(自分および周りの人間に)失望したくない

③遠くの理想より目の前の幸福

ということになります。結局、どれも逃げた(諦めた)ってことじゃないか……

 

②の「失望したくない」というのは、中学校入学時の経験があります。中学受験して入ってみたら、クラスメートが予想以上にガキ+凡人だった*4、という経験です。(前も書いたかな?)

これについては、「ぼっち道をゆく 第2回」で詳しく書く予定です。

この世界は(もちろん自分自身も)、見事に期待を裏切ってくれる。僕の期待を裏切らないのは、二次元だけだよ!

結局、大学に入っても「こんなもんか」って感じですからね。なお、自分が斜に構えているだけで、まともに世界を広げようとしていないことは否定しません。

ただ、最近は、そもそも他人に何かを期待すること自体が間違っているのだと思うようにしている。

この考え方は良いですよ。特に、通勤ラッシュ時に割り込んでくる輩とかが気になる人には。その程度の存在だと思ってしまえば、どうということはありません。

 

③については、あくまでも僕のイメージ(であり願望)ですが、少し補足する価値があるでしょう。

「世界を変えるようなこと(=遠くの理想)をするのは理系だし、文系はそれこそささやかな幸福(=目の前の幸福)を守るだけ」と書いていますが、これは冒頭の本庶氏の話とも絡んできます。

医者になって新薬を開発すれば、それで何万、何十万(あるいはもっと)という命が救われる。弁護士になっても、救えるのは目の前の依頼人だけ。確かこういう話だったはずです。まあ、総理大臣にでもなれば話は別ですが。冷静に考えてみたら、偉大な科学者と普通の弁護士じゃきちんとした比較になってないな。

とにかく、理系と文系じゃスケールが違うんです。

僕は人助けがしたいわけではありませんが、理系に進んだならば、70億の命を奪うことになってでも成し遂げたい何かがあります。

恐らくそれができないと分かっているから文系を選んだ、ということになるんでしょうね。当時の彼に言わせれば、そうやって諦めること自体が間違っているんでしょうけれど。

 

因みに、医者と法曹(特に裁判官と弁護士)について話をすれば、これは役割が違うものだと思っている(←当たり前)ので、本庶氏の話のようなことで悩んだりはしていません。

雑な言い方をすると、医者は人命を救いますが、法曹は人権*5を救う*6んです。

人権は前国家的なものだと言われてはいますが、数万年前のような狩猟生活をしているところで人権なるものが観念される余地はないでしょう。そんな社会でも、医者(のようなもの)は必要です。人間の存在自体に関わるものですから。でも、法曹は必要ありません*7。そもそも法なんて無いし。極端なことを言えば、人権なんて無くたって生きていけるんですよ。スポーツ選手とかがたまに言ってますよね。「自分たちは必ずしも必要な存在じゃないからこそ〜」みたいな話。それと似たようなものです。

その上で法曹とは何かと言えば、ある意味この文明社会の守り手なんですよ。というか、そうであってほしい。法って、文明の象徴だと思います。人類の叡智(?)が作り出した法に従事するのが法曹なんです。 

ただ、医者は医学部に行かなきゃなれませんが、法曹は法学部に行かなくてもなれるので、迷ってるなら医学部行った方が良いと思いますけどね。

というわけで、Lukrezは法曹になるということに(無理やり)意味を見出したわけです。

 

「ささやかな幸せ」についても述べておきます。

簡単に言えば、家に帰れば家族がいて、週末には和やかにすごす。それでいいじゃん!ということです。そうやって人の心に触れているのが大事じゃん!ということです。ただこれも、「別に頑張らなくたっていいじゃん」という言い訳になってしまう気がする。

理系でも家庭ぐらい持てるけど、と言われたらその通りです。それに、仮に結婚できたとして(←まずそこから)、そういう生活が実現するのかは甚だ疑問です。でも、とりあえずそういうことです。

「何を言っているんだね、君は」と思った人は、(アニメでいいので)『CLANNADクラナド〜』を観ましょう。『CLANNAD〜AFTER STORY〜』もセット。

 

 

 

相変わらずグダっていますが、そんなこんなで僕は文系に進んだわけです。

結局、文系に進むのは何故かと問われたら、「逃げたから人間らしさを守るためさ!(適当)」ということになるんですかね。

 

最後に、文転した僕の態度を象徴するような当時のメールを見て終わることにしましょう。

 

当然(にして突然)だけど、我々は過渡期にいるんだよね
この事実は何かしら我々に影響を与えてるのかもしれない
過渡期に生まれた変革者みたいなものが我々と同世代にいるかもな
そしてそれは君かもしれない
…唐突だね

 

(元同志A)

という元同志Aのメールに対するものです。

いや、彼にこんなことを言ってもらえるのは本当に有難いことなんですけれどね。

この後、彼の中で僕の評価がどうなったかは知りません。今となっては、心に残ってすらいない可能性がある……可愛い彼女おる(はずだ)し。年賀状送るのやめようかな……

それで、彼の言葉に対する僕の返答がこちら。


残念ながら、そういうのを目指すのはやめたのだよ……

  

 悲しいね。

 

 

(追記) 

振り返ってみたら、テクノロジー全然関係なかった!

*1:ただ実際に法律関係の仕事をしている人間でそういうことを言っている人はあまりいない気もする

*2:元々は理系のクラスにいた

*3:理系コンプレックスとでも呼ぶべきですかね。

*4:これは、あくまでも当時の僕の一方的な評価です。そして、そのクラスメートの中に後の同志Aもいました。

*5:生命自体も人権の一部だと言うことができますが、ここで言う人権の内容については察してください

*6:裁判所などにより人権が侵されてきた歴史もありますが、それはひとまずおいておいて

*7:もちろん仲裁者とか仕切り役みたいなのはいたはず

道徳教育をするぐらいなら刑法教育をしよう!

どうも。11月中旬に書くと言った記事を、未だに書き終えておりません……

 

しばらく、本題とは関係ない話。

昔から弓を自作したいと思っていたのですが、問題はリム(しなる部分)です。手軽に入手できて強度と弾性もある材料って、なかなかないんですよね(多分)。あったとしても、加工するの難しそうだし。

そこで、しなる素材の代わりに使えるのではないかと考えたのが、バネです!

調べたら、やっぱりありました。ただ、どれも普通に手で引くだけで、見た目的にもロマンがない。魚捕まえてる人とかいたし、威力はそれなりにあるんでしょうけれど。

コンパウンドボウみたいに滑車を付けたら、威力も強くなるし格好良くなりそうです。ただ、市販のコンパウンドボウの滑車って普通の滑車じゃないし、パーツだけじゃ売ってないし、加工する技術もない……仕方ないので、普通の輪軸を使うことにします。

それだけだと芸がないので、色々考えた末に思いつきました!

動滑車と輪軸の組み合わせで、弓を引くのに必要な力を80%カット*1*2です!

この技術は、現在特許申請中です(嘘です)。弓で動滑車を使っているものは、流石にまだないと思う。構造が複雑になればその分重くなるし。そもそも本当に機能するのかも不明*3。それに、これで弓と呼べるのだろうか……

因みに、自転車のフリーホイールの構造を応用して力を溜めることも考えています。弦を引くたびに、その力が保持されます。コンパウンドボウみたいに、保持力が少なくなるというレベルではありません。保持力ゼロ(です!これだけだと「クロスボウと同じじゃないか!」と言われかねませんが、こちらは段階的に引くことも可能です!つまり、引いては休んで、引いては休んでを繰り返すことができる。これは、軍事技術に革命が起きますよ。(←数世紀遅い)

そもそも、弓にこの技術って要るんですかね……

どちらの技術もまだ落書きレベルなので、今後もっと洗練させていかなければ。

 

 

余談はこれくらいで。更新も全然していなかったし、今回は時間稼ぎのための適当な記事。

以下の記述は、中途半端に刑法を学んだ人間の戯言にすぎず、なんら法的な正しさが担保されたものではありません。この文章に関連して何か損害を受けたとしても、筆者は責任を負いかねます。

 

 

今年のことだったと思いますが、道徳の教科化が話題になりました。
「道徳で点数を付けるのはどうなのか」とか「愛国心教育だ」とかそういう話は置いておいて、僕が気になるのは、そもそも学校で道徳を教えることに意味があるのか、ということです。道徳教育に限らず、主権者教育とか要らんと思う。

 

さて、話は飛びますが、憲法を除き、一般的に高校まででまともに法律について学ぶことはありません。

憲法教育の価値についてはさておき(立場上流石に無意味だとは言えない。僕自身学んだこともあるし)、学校で教えるべき法律があるとすれば、それは民法でも商法でもなく、刑法だと思うのです。要するに、道徳を教科化する暇があるなら、カリキュラムに刑法の授業でもぶち込んでおけということだ。

 

刑法は、ざっくり言うと刑罰について定めた法律です。その刑罰は何故存在するのかと言えば、

応報(犯罪行為自体への報い)②一般予防(犯罪の抑止)③特別予防(再犯の防止)
の3つです。
①③についてはその役割を果たしていると言うこともできると思いますが、②については甚だ疑問です。

刑法38条3項に、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」と記されています。

「法の不知はこれを許さず」というやつです。*4

刑法に限らず、「法律を知らない」などと言う言い訳が許されてしまったら何の為に法律があるのか分からなくなってしまいます。

しかし、このような規定があるからといって、人々が法律について学ぶわけではありません。(というかこの規定の存在自体知らない人間が大半でしょう)
刑法の存在を知っているだけで多少は自制が働くこともあるでしょうが、個別具体的な内容について教えることで、予防効果は遥かに高まるはずです。

そこで出てくるのが、刑法教育です。

社会秩序を守りたいなら、これは割と有用だと思う。
特に教えるべきなのは、「どこからが犯罪か」「故意の問題の2点です。
前者については、例えば窃盗目的で店舗に侵入した場合、レジに向かって行きかけた瞬間に窃盗の実行に着手した*5ものとされた例があります。「(盗んでも)返せばいいんでしょ」などという主張は論外なのです。
後者については、例えば殺人罪における故意は、「殺してやろう」という所謂故意ではなく、「死んでもいい」という死の認識・認容で足りるとされています。
このように、刑法の規定及び解釈は、必ずしも一般人の感覚と一致するとは限らないのです。

 

ただし、あまり詳しく教えると、抜け道を探そうとする輩も出てくる可能性があります。
例えば、後払いの飲食店で食べ終えてから支払いの意思を無くし、こっそり店を抜け出したとしても、不可罰となります。尤も、当然店側は民事で賠償を請求できますし、始めから狙ってやったら詐欺罪です。
そもそも、詳しく教えられるほど授業時間は確保できないと思いますが。

 

話を戻しますが、授業で「命は大切に」と言われてそうできる人間は最初からそうしていますし、やっていない人間は基本的に何を言われようが変わりません。道徳の授業には何ら拘束性がないからです。本当に変えたいなら、身をもって体感させるしかないのです。

その点、国家権力が背後に控える刑法は違います。
「いじめはいけません!」と言われるより、「いじめたら(下手したら)死刑*6だから」と言われた方が、(特に小学生に対しては)遥かに効果があるでしょう。
「恐怖で人間を制御するのはどうなんだ」というのはもっともな指摘ですが、そこから先は価値観の問題です。

 

因みに、刑法教育の意味は予防効果にとどまらないはずです。
例えば、いじめられている子がいたとします。これまでなら、彼/彼女はだいたい①耐える②親・教師等に助けを求める(③自殺)ぐらいしか選択肢がありませんでした。そこで反撃or対処できる人間は、いじめられたりしないらしいし。

刑法教育がなされれば、何かされたらその場で警察に通報するという選択肢が生まれるわけです。

(刑法教育なんかされなくても選択肢としては存在し得ると思うけど。なお、学校という特質上、警察が来るとは限らない)

さらに、(これは刑事訴訟法ですが)私人逮捕ができます!相手に殴られたら、めでたく暴行罪or傷害罪が成立して現行犯逮捕です。逮捕した後は、直ちに警察に身柄を引き渡しましょう。
そこまでしなくても、それまではせいぜい「先生に言ってやる」程度でしか言い返すことができなかったのが、「お前無期懲役な」とか「絞首台に送ってやる」に進化するのです!
それに対していじめっ子が「今のは脅迫罪だ*7」と言えば、そこからは野蛮ないじめの域を脱し、文明的な法的論争へと発展するはずです!

学年が上がると不作為のいじめ(所謂シカト)も増えるみたいですが、村八分の通告を脅迫と認めた判例があります。つまり、(果たしてそんなものがあるのかはさておき)今後ハブる旨の通告があれば、それで脅迫罪が成立する可能性もゼロではない、ということです。

 

ここからは、暫く刑法とは関係ない話。
しばしばいじめによる自殺がニュースになりますが、よく思うことがあります。
何故、死ぬ前に加害者に復讐しないのか。

復讐というのは、言い返せとかやり返せということではありません。無視されてしまったら、やり返しようもないですし。

(ぼっち至上主義からすれば、周囲の愚民が関わらないでくれるならそれはそれで手間が省けて良いことだと考えられなくもない)
いじめの程度にもよりますが、少なくとも死を選ばねばならないほどのものであるなら、いじめの形態に関わらず相手を◯す気でやる、ということです。

死ぬのは、それからでも遅くないでしょう。

無責任なことを言っているのは百も承知ですし、間違いなく違法行為*8です。
でも、誰かがそうするだけで全国の状況が変わると思う。
基本的には、やり返されないと思っているからいじめるんです。どうせ大したことにはならないと思っている(or結果について考えが至らない)からやるんです。自分が被害者にならないために加担している場合もありますが。

いじめの加害者が復讐をされたとなれば、その話は全国に広まり、他の加害者が立ち止まる一因になりうるでしょう。恐怖は、間違いなく人間を動かすものの一つなので。

こうして、世界は犠牲により前へ進んでいくのだ。

一応書いておきますが、これは抵抗権レベルの最終手段であって、犯罪行為を教唆・幇助するつもりはありません。

 

以上、滅茶苦茶なことを書いてきましたが、特に小学校での刑法教育については、1つ大きな問題があります。

刑法41条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない。

あれ、抑止効果ないじゃん……

この条文を教えなきゃいいのですが、子供がこれを知ると、却って犯罪を助長する可能性もある……

念の為書いておきますが、決してこの条文が悪いと言っているわけではありません。むしろ、子供の人権を守る極めて重要な条文です。 

結局、自ら適切な倫理観を身につけてもらうに越したことはないよね。

 

 

最後に、刑罰について。

現在の日本での刑罰は、死刑・懲役・禁錮・罰金などですが、刑罰にVRを利用できるのではないでしょうか。

具体的には、加害者に、自らの犯した犯罪を被害者の立場から追体験していただきます!これでこそ、本当に被害者の気持ちが分かるというもの。

窃盗みたいに客体が物だと使えませんが、客体が人なら使えます。

現在の技術じゃまだ難しいかもしれませんが、視覚以外の五感や神経への刺激も可能になれば、臨場感はさらにアップ! 五感への刺激ぐらいなら、比較的人道的と言えると思う。

しかし、これにも問題はあります。VR刑罰を体験するために犯罪を犯す人が出てくる可能性が……やっぱり刑罰って難しいね。

 

 

ここまで、自分が加害者になる可能性を排除して書いてきましたが、刑法も刑罰も厳しくすればいいというものではありません。刑法には、人権保障機能もあるからです。「何言ってるんだ?」と思った人は、調べればすぐに見つかると思います。

 

再度書いておきますが、この記事には法的に誤った箇所がある可能性もあります。倫理的には、色々間違っている可能性が高いです。

あくまでも数ある意見の一つ、程度の気持ちで受け止めて(or無視して)ください。

 

次回は(多分)まともな記事を書きます。それでは。

 

*1:文系で計算方法忘れたし数字は適当。まあ、輪軸で直径を調整すれば実現可能なレベルだと思う

*2:12/16追記 動滑車を使えば、当然その分弦を引く距離は増えます。輪軸の部分は……←そもそもコンパウンドボウの仕組みをきちんと理解していない奴

*3:12/16追記 動滑車を使うとなると、摩擦を考える必要があります。詳しいことは分からぬ。

*4:法を知らなかったことにより、任意で刑が減軽されることはあります。

*5:それ以降は、実際に物を盗まなくても窃盗未遂罪になるということ。

*6:正確には、少年法があるので18歳未満で死刑になることはない

*7:詳説はしないが、前者については恐らく脅迫罪は成立しない。後者も、多分成立しない。

*8:状況にもよるが、過剰防衛が成立する余地すらなさそう

投稿した小説が大賞を受賞しました!

突然ですが、小説投稿サイトに投稿していた作品が某賞で大賞を受賞しました!
このブログを始めるきっかけになったアレです。というか、アレしか投稿していません。
ただ、大賞と言っても、サイト内の小さな賞です。しかも、2話まで(4万字程度)しか書いていません。自分でも嫌になるぐらい描写力が無いので、もうほとんど放棄していました。連絡が来るまで応募したことすら忘れていました。1話2万字を目安に書いてきましたが、やっぱり1万字程度に抑えるべきなんでしょうかね。無理に引き伸ばしても粗が目立つし。でも、1万字じゃあまりにも話として薄い気がします。

因みに、賞金も貰えます!しかし、クラスメートが塾講師のアルバイトで1週間に稼ぐ金額の方が高い……まあ4万字じゃそんなもんだよね。

そうは言っても、我が人生初の自分で稼いだお金!これ、本当に貰えるのかな。まあ、金目当てでやってたわけじゃないし!(嘘)
大きい賞だと50万ぐらい貰えたはずですが、塾講師やるのとどっちが割が良いんでしょうね。(既に受賞する前提)。
プロの批評家的な人からコメントをいただいたのですが、(批判も含めて)書いてある内容が、自分が作品に対して考えていたこととほぼ同じで安心しました。あと、コンセプトとかも読み取ってそれを評価してもらえたっぽいのが嬉しかった。


文章があまりに酷いので、とてもこのブログで紹介できるような代物ではないのですが、物語の設定についてはかなり自信があります。物語の新たな一類型を作り出す可能性を秘めた超大作です!今回の受賞も、文章そのものというよりは世界観が評価されたのだと思う。

気が向いたら、あらすじだけは紹介するかも。一言で表すと、「見送る者の物語」ですね。

因みに、ラノベ作家になる宣言をした後、元同志Aにあらすじを紹介したら、「平積みにはされないけど、打ち切られもしない作品」などと評された作品です。彼の好みとは合わないからなあ。

 

この作品、元々アニメ化を意識して考えました。1話完結方式だし、続けようと思えばいくらでも続けられます。出版社にも優しい仕様。
ただ、物語の大きな流れとして完結までは考えてあります。
そう思って某賞に出したら……。まあ、当時はまだ1話しか書いてなかったからなあ。あとで京アニでアニメ化されても吠え面かくなよ~!

京アニの名を出しましたが、細部を固めて実際に文章にした際には、若干『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を意識しました。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はそうでもありませんが、今後上述の物語みたいな系統の作品って増えてくると思うのですよ。僕が好きなので願望も混ざっていますが。
異世界食堂』とか『おとなの防具屋さん』などがアニメ化されているのを見ながら(アニメ未視聴・原作未読で内容は全く知りません)、ようやくこの時代が来たか、と密かに思っています。
どういうことかというと、英雄(見送られる者)の時代は終わったのです!(とうの昔に終わってた?)
軍事面では、特に第二次世界大戦後にそういうことが言われている気がします。現代は、卓越した個人よりも一定水準の団体の方が大事だと。
ある意味で、人類が老年期に入りつつあるのかもしれません。(それにしてはこの体たらくは何なのだ……)

こういう話は、また今度詳しくするとしましょう。

 

とにかく、最近こういう経験ってなかったので、受賞したのは素直に嬉しかったですね。

結局『宇宙よりも遠い場所』を観てしまったりしてまだ途中なのですが、近いうちに先日予告した「文系に進む意味」についての記事をあげたいと思います。

『よりもい』の感想も書こうと思えば書けるのだけれど、その時間があったら小説の続きを書かねば。やっぱり、1日が24時間しかないのは短すぎると思います。4分の1は寝てるし。

それでは。

生存報告

前回記事から4週間も間が空いたのは、車輪の国*1をプレイしたことで、改めて時間の大切さに気付いたからです!そして、ブログを書くのも時間の無駄だと気付いてしまったのです!(というか薄々感じてた)

そもそも、そのプレイ時間自体が時間の無駄だったのではないかという気もしないではない。でも、まだ2章までしかやってないし。続きを知りたい気持ちを抑えながら勉強に励むという、精神の鍛錬にもなっているのだ!
そんなことやってないで上手く時間作れよって話ですが。平日なのに12時間近く寝てる日とかあるのは本当に問題な気がする。

 

それで、(予備試験の)勉強をする気になったところで、「なぜ法曹を目指すのか」というテーマを書いておこうかと思ったのですよ。
前から考えていたものだし、少し前に本庶佑氏がノーベル生理学・医学賞を取った時にも興味深い話を聞いたので。

その為には、やはりまず「文系に進む意味」を考える必要があるでしょう。近い将来仕事がなくなると言われていますし、最近は文系不要説まで唱えられているという噂ですし。
僕は最初から文系だったわけではなく、文転した人間です。このブログは「回顧録」と銘打っているので、何故その選択に至ったのかを探るべく当時のメールを読み返して見ました。

そこで、元同志Aの辛辣な言葉にぶち当たったんです。そういうものを読んでいるうちに、改めて勉強しよう!という気が湧いてきて、パソコンを閉じました。

 

ここまでが3週間前の話。

それから紆余曲折を経つつも勉強していたのですが、憲法の復習が終わったところで僅かな気の緩みが生まれた結果、某ソフトのキャラメイクにハマってしまいました……

因みに、これまでの最高傑作がこちら。↓

f:id:Lukrez:20181104005932p:plain


最初期に、プリセットのものを適当に組み合わせていたらできた(ものだと思う)。多分パラメータは殆ど弄っていないのですが、驚異的な可愛さです!……みんなもそう思うよね?
ここまできてしまうと、バーチャル>>>越えられない壁>>>リアルであることが一目瞭然です。

でもこういう顔の人実際にいそうだし、何もしてないけど、こんな彼女が欲しい……

 


さて、そもそも何故3Dキャラメイクに手を出したのかというと、艦これの大和をリアルな形に落とし込みたいという願望があったからです。
しかし、彼女を再現するにあたって重大な問題があった。
ハ◯ーセレクトは、手脚の長さが弄れません*2
特に脚の長さを変えられないと、大和のあの感じは出せないと思うのですよ。
ということで製作者さん、新作出すときは、是非手脚の長さも変えられるようにしてね!

脚の問題は置いておくとして、最大の難関が顔です。これさえクリアすれば、完成したも同然!
大和の場合は「可愛い」ではなく「綺麗」な顔を作りたいのですが、これがなかなか難しい。
それに、一般的に美人と言われる顔は楕円のような細長い顔のようなのですが、寧ろ顎の部分は正八角系に近い形にしたいんです。しずまよしのりの絵もそうだし。でも、顔の輪郭を思い通りにするのが結構大変。

あと、細目の美人顔って難しくないですか?(大和自身は細目じゃないと思うが、僕はそうしたい)
アニメタイプの絵は目が大きいですが、それだと可愛い感じになっちゃうんですよ。ただ、細くしすぎると今度はホラーみたいになる。
今回色々やってみて、目によって人の印象は大きく変わる、ということを実感しました。


という感じで思い通りの顔が作れないまま、今日に至るわけです。
いい加減勉強に戻りたいので、この記事を書いて一区切りにしようかと。
このままキャラメイクに時間を吸われると、ろくなことがありません。

ブログについては最初の方で時間の無駄とか書きましたけど、やっぱり、一度始めたことを続けられないようじゃ、勉強も続けられませんからね。(←こじつけ)
それに、時間の使い方をルーティン化するのも大事な気がする。

今月の中旬には、「文系に進む意味」や「法曹を目指す理由」についての記事をあげるつもりです。
中旬に入る前でも民法の復習が終わったら書きたいと思いますが、残念ながら多分それはない。

 

記事を書きながら作中歌を聴いていたら、『宇宙よりも遠い場所』を観たくなってし舞いました……

正直、一本ぐらい観ても大して勉強時間は変わらないんだけどね。問題は、そこからなし崩し的に2本、3本と観てしまうことです。

中高時代には、1週間程度の試験期間中に4クールのアニメを観るなんていう暴挙もやっていましたが、あの時代に戻るわけにはいかんのだ。

 

宇宙よりも遠い場所』といえば、苦い思い出があります。

大学で授業中に「受験中に観られなかったアニメを観たい」という話をしていた2人組がいたのですが、

A:「あと『よりもい』も観たい」

B:「何それ?」

A:「うちゅうよりも遠い場所」

(A君ドヤ顔)

 

ということがあったのです。

「『そらよりも遠い場所』だろ!」と全力で突っ込みました。心の中で。

確かに知らないと仕方のないことだけどね。略称を知っていて何故正式名称を知らんのだ……

これだから友達ができなかったんですね。

 

そういえば、「ぼっち道」のことも忘れたわけじゃないです。次の次ぐらいの記事で第2回を書くと思う。

 

それでは。 

*1:あかべぇそふとつぅ車輪の国、向日葵の少女

*2:実はそのためのMODも出ているのですが、非公式だし。何より使いづらい。

ぼっち道をゆく  第1回 「ぼっち」とは何か 〜「ぼっち」の定義〜

新学期が始まりました。朝起きて大学に通う日々が戻ってきてしまった……

気付けば前回記事から2週間以上経ってしまいましたが、やる気が失せないうちに、前回予告した記事の第1回を書いてしまいます。本当は、予備試験の勉強したくないだけ。 

何か全体を通したタイトルが欲しかったので考えたのですが、良い案が思いつかないので、とりあえず「ぼっち道をゆく」としておきます。

 

念の為書いておきますが、「ぼっち、道(みち)をゆく」ではありません。「ぼっち道(どう)を、ゆく」です。

「ぼっち道」の「道」は、弓道とか茶道の「道」と同じです。ぼっちという在り方を通じて鍛錬と真理の探究を重ね、「究極のぼっち」を目指します。それは同時に、物理学から政治学、哲学まで幅広い学問分野を包含した一つの体系でもあるのです!

っていうのは冗談です。「道」を付けたらそれっぽくなるから付けただけ。

 

 

 

それでは、内容の方に入っていきましょう。

記念すべき第1回のタイトルは、「『ぼっち』とは何か 〜『ぼっち』の定義〜」です。

文字通り、「ぼっち」とは何かを考えます。

何を語るにしても、対象を定義することは重要だと思うのですよ。認識に差があると、適切な議論はできませんからね。

 

しかしその前に、全13回を予定している一連の記事がどのようなものか、ということを示しておく必要があるでしょう。換言すれば、何故こんな記事を書くのか、ということです。

 

ここ数年、孤独に対する社会の評価が変わってきているように感じます。つまり、これまで主に害悪として扱われてきた孤独に対して、肯定的な評価がなされはじめていると思うのです。*1ようやく時代が俺に追いついたようだ。

勿論、そうした言説は今に始まったことではないでしょう。しかし、かつてないほど大きな(と言っても大したことはありませんが)変化の波が押し寄せてきているように感じます。書店に行けば孤独を推奨するような自己啓発本も少なからず見つけられることでしょう。

背景には色々あると思いますし、それについてここで深く突っ込むつもりはありません。しかし、中高生の自殺の問題や、LGBTなどの少数派に対する態度の(少なくとも表向きの)変化などがその一翼を担っていることは間違いないと思います。もしかしたら、世界で流行りの自国第一主義的なものにも通じる部分があるのかもしれません。

 

さて、そうした事実?を踏まえた上で、ここで「ぼっち道をゆく」なる題の記事を書こうとしているのは、なにも流れに便乗してぼっちを推奨しようなどと思っているからではありません。寧ろ、僕としてはこのような流れに賛同しかねていると言ってもいい。

というのも、上述の社会的な流れとぼっち道では、恐らく抱いているものが全く異なるからです。それに、ぼっちというのは人間の在り方として決して適切なものではないでしょう。

 

ということで、一連の記事を読めば、望まずしてぼっちになった人間が救われる、なんてことは(ほぼ)ないでしょう。ぼっちを含む少数派を元気付けよう、などと思っているわけではありません。援助を求めているなら、多分自治体の窓口とかその手のNPOにでも連絡する方がまし。

何を思ったかぼっちを志してしまった人間の手引きになる、ということもないはずです。そんなものになっても困る。

健全な中高生に対して、道を誤らないよう戒めるものでもありません。そもそも、健全な中高生はこんなもの読んだりしないんだな。

 

これは、ぼっちの言い訳に過ぎないのです。吐き出す先もなく頭の中を彷徨い続けている、くだらない言い訳に過ぎないのです。

それを見知らぬ何処かの誰かさんに読んでもらうことで、ちょっと気を楽にしよう、というだけなのです。

ブログなんて、究極的には自己満足なので。

 

 

 

何となく意図を理解してもらったところで、本題に入りましょう。

早速ですが、ぼっちの定義は何か。

色々な考えがあると思いますが、ここでは以下のような定義を用います。

 

定義1

 ぼっちとは、孤独を感じている常況にある者を言う。

 

ちょっと成年被後見人を意識してみた。(民法7条参照)

「ぼっち」が「ひとりぼっち」の略であることは異論のないことで、そのような原義を考えると、上記の定義は若干意味が違ってきます。その問題については後で触れることにして、解釈にあたっていくつか注意をしておきましょう。

 

・「孤独を感じている」について

何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、これは意外と深い問題です。

しかしここでは深入りせずに、主に2つの状態を指すと解します。

まず、孤独を2つの意味に分けます。

①心情としての孤独。寂しさ。

②事実としての孤独。一人でいること。

定義1は、この両方を含むものです。

つまり、①所謂「寂しい」という状態に加え、②「客観的に見て自分が一人(=ひとりぼっち)であること」を認識している状態をも指します。

前者を「主観的ぼっち」、後者を「客観的ぼっち」と呼ぶことにしましょう。

定義1では、少なくとも一方に該当すれば、ぼっちと見なします。勿論、どちらにも該当するケースが殆どでしょう。一般的には、ひとりぼっちだからこそ寂しさを感じるわけで。

ただ、定義1によれば、寂しさを感じていなくてもひとりぼっちであると認識していれば、ぼっちであることになります。これは、ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではないという観点からすれば、当然の帰結です。

唐突に登場した「ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではない」という考えは、一見すると「ぼっちが人間の在り方として適切なものではない」という見解と矛盾するようにも思われます。これについては(忘れていなければ)後々説明するので、今はそういうものだと思って受け入れてください。全13回の記事を読み終えた暁には、きっと納得もできていることでしょう。

他にも特殊なケースがあるので、それは後述の問1・問2で触れることにします。

 

・「常況」について

 具体的にどれくらいの割合なのか、ということが問題になりますが、これは緩く解釈してしまっていいでしょう。

つまり、60,70%ぐらいあればよいものとします。*2sometimesとかoftenって感じ。

もっと言えば、本人が「そう感じていることの方が多い」と感じていれば、それでよいと思います。流石に緩くしすぎかな。

というのも、「文字通り常にひとりぼっち」という状況は考えにくいからです。

学校や会社や家族がありますから、一人ぐらいは傍に立ってくれるような人間がいてもおかしくはないのです。そういう人間が本当にゼロだと言うのなら、1回ぐらいは認識に欠陥があることを疑うべきでしょう。*3

勿論、四六時中寂しさを抱えている、ということは考えられます。

でも、「常況」をあまり厳しく解釈してしまうと、ハイスペック()ぼっちを自称していた当時の僕が「ぼっち」に含まれなくなるという不都合が……

 

 

これらの点については、批判もあるところだとは思います。しかし、解釈にあたっては、定義した人間である僕が言っていることが正しいのだ!

それでは、先述の論点に。

 

 

問1 たとえ客観的に見てひとりぼっちであっても、それを本人が自覚していない場合には「ぼっち」に当たらないのか。「孤独を感じている」とあることから問題となる。

e.g. Aはクラス中から毛嫌いされ、彼と親しい人間はいない。しかしクラスメートが遊んでいると、Aはさも当然のように入ってくる。彼の中では、クラスメートは友達として認識されているらしい。Aはぼっちと言えるのか。

 

勿体ぶった書き方をしているのは、気にしないでください。予備試験の論文を意識しているつもりのだけです。

この問題は、要するに、外からはどう見ても「ぼっち」なのに、本人がそう思ってなきゃ「ぼっち」じゃないのか、ってことです。

ひとりぼっちである状況を認識していない以上、当然「寂しさ」なんて感じるはずもありませんから、どちらの条件にも合わないことになってしまいます。

これについては、解釈に忠実に「ぼっち」には当たらないものとします。

というのも、遅かれ早かれそうした状況は解消されるからです。

 

ぼっちというのは、周りに人間(集団)がいるからこそ、相対的に定義されるわけです。*4

そのような状況では、ずっと気付かないということは考えにくいでしょう。本人が気付かなくても、周りの人間が(好意にしろ悪意にしろ)気付かせることもあります。そして本人が認識すれば、その瞬間から「ぼっち」に該当するのです。

気付かない場合でも、所謂友達のようなものができれば、ひとりぼっちではなくなります。

 

それに、認識できていない人間をぼっちに含めたところで、大して実益が無いんですよ。

その人に何かしら働きかけるということは、認識させることに他ならないわけで。放置しておく場合には、その人のことを考える必要もありませんからね。

 

 

問2 客観的に見ればひとりぼっちではない主観的ぼっち*5は、「ぼっち」と言えるのか。原義に反するように見えることから問題となる。

e.g. 学級委員長のBはいつも人の輪の中にいるが、心の底で寂しさを感じている。Bは「ぼっち」と言えるのか。

 

知り合いは多いけど親友はいない、真の理解者が欲しい、みたいなパターンです。

アニメだと、時々こういう女の子いますね。そこにイケメン主人公が転校してきて、彼女は恋に落ちる、と。

それに、SNS時代の現代においては、こういうパターンは増えているのではないでしょうか。 

これについても、解釈通りに「ぼっち」に当たるものとします。

「贅沢言うな!」という怒声が聞こえてきそうですが、ぼっち道で扱うのは主に心の問題なので、本人がどう感じているか、というのは大事なんです。

それに、敢えて主観準拠の定義にしたのはこのようなケースもぼっちに含めるためです。

 

 

以上のように、ぼっちかどうかの判断に際しては客観的態様は問いません。主観的態様を重視します。 今後も諸問題について基本的に主観を重視する方向で行くので、そのつもりで。

 

定義したのはいいのですが、 考えてみたら、今後ぼっちについて一般論的な内容を扱うことは殆ど無いですね。他のぼっちの生態なんて興味もなかったし。元同志Aと出会って以降の僕のケースは、かなり特殊なパターンのような気もします。 

一般論について知りたい人は、適当に本屋で漁るのが良いでしょう。ぼっちをテーマにした本もそこそこあると思いますし、先述の通り最近孤独を賞賛するような論調の自己啓発本が増えている(ように感じる)ので。読んだことはありませんし読む気もないので、内容については一切関知するところではありませんが。

 

 

 今回は、これぐらいにしておきましょう。ぼっちの定義は超重要です。試験に出ます。

第2回は、深遠なるぼっち道へ 〜かくして少年はぼっちとなった〜」と題して、ハイスペック()ぼっちを称するに至った少年の道筋を辿ります。

彼が本当にぼっちだったのか、という問題も扱う予定です。尤も、これについては既に答えが出てしまっていますが。

 

 

 最後に余談。

 

唯一とも言える大学でのぼっちの欠点として、一人で授業を受けているとほぼ確実に寝る、という弊害があったのですが、なんと、「隣にクラスメートがいても寝るものは寝る」ということが判明しました!僕だけじゃなくて彼も寝てた。

今学期は授業中に寝ないつもりだったんだけどなあ。早くも初週で破ってしまった……

ちゃんと数えたわけじゃないですが、先学期は一睡もしていない授業って多分全体の1割ぐらいなんですよね。そのせいで1科目しょうもない点数を取ってしまいました。対策を立てようと思ったのがラスト2回ぐらいになってから、というのも問題があった。

理系だとどうなのか知りませんが、基本的にひたすら教師が話しつづけますからね。面白かろうが面白くなかろうが、寝るときは寝る。それでも授業が終わった瞬間眠気が吹き飛ぶんだから、不思議なものです。

コーヒーとか飲んでもあまり効果が無いんですよね。どのようにして防ぐものか。

だいたい、授業が長過ぎるんですよ。語学とか、体感時間恐ろしく長いし。

高校の時から授業中寝てたのが良くないですね。多分あれで、寝る癖がついてしまった。中高生は注意しましょう。

それでは。

*1:孤独担当大臣なるものを創設した某国のような例もありますし、このような動きは日本だけかもしれませんが……

*2:なお、民法上の「常況」はもっと高い割合を指していると思われるので注意。それとも、これってパーセントとかそういう問題じゃないんですかね。よく分からん。

*3:認識を疑った結果本当にひとりぼっちだったというケースを一切否定するつもりはないことを、一応記しておきます。(2018/11/3 追記)

*4:絶海の孤島に一人で住んでいる人間がいたところで、それを知る者がいなければ「ぼっち」として定める意味はない

*5:全ての主観的ぼっちが該当する、ということではなく、外から見ればぼっちじゃないのに本人は孤独を感じている、ということ