元 ハイスペック()ぼっちの回顧録

かつてハイスペック()ぼっちを自称していた文系大学生のブログです。「常に観測者でありたい」

ラノベは文学界の民主政なのだ!

夏休みになり、実は自動車学校に通っています。予約を取ろうと動き始めた時には軒並み合宿所が埋まっていたこともあり、通学短期です。最短19日という言葉を信じた結果、8月が殆ど潰れました。

合宿で免許を取った知人から、教官に散々罵られたという話を聞いて戦々恐々としていたのですが、僕が通っている所では教官に怒られることすらないです。とはいえ、声を上げて怒鳴られたりしないだけで、嫌味言ってくる人はいます。そういうことをしても生徒は上達しないと思うのですが、ストレス溜まってるんですかね。

ということで、自動車学校での体験話を1つ。

 

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(Lukrez、助手席に教官を乗せ、セカンドギア・20キロ強で教習所内を走行中。マニュアル車)

教官、カーブ前での減速が足りないLukrezに業を煮やす。

教官:「アクセル、ブレーキ、クラッチを踏まずにそのまま進んでいたらどうなりますか?」←一応、丁寧語

Lukrez:(アクセルを踏まないということは、エネルギーが供給されない→タイヤは惰性で回転し続けるが地面との接触面で動摩擦力が働く+エンジンブレーキというのもあったぞ!)←この間、僅かコンマ3秒!

Lukrez:「減速して止まります」

教官:「止まるんですか?」←半ギレ

Lukrez:(おかしいな→思考中→そうか!クラッチを踏まないということはシフトチェンジもしない!つまり、セカンドギアのままだ!→減速していく途中で、エンストを起こすということだな!この教官、なかなか深いところを突いてきおった)←この間、僅かコンマ2秒!

Lukrez:「エンストします」

教官:「エンストするんですか?アクセルもブレーキも踏まないんですよ?それでエンストするんですか?」←3/4ギレ+煽り

Lukrez:(エンストじゃないのか?アクセルを踏まない以上、加速することはあり得ない。そうなったら、残るのはアレしか……)

Lukrez:「速度を維持します」

教官:「そうですよ!同じ速度のまま進むんでしょ?だから、(速度を落とすために)クラッチを踏むんです」←自分が望む答えが出るまでの遅さに苛立ちが隠せない

Lukrez:(エネルギーが供給されてないのに、同じ速度で進み続けるわけがないだろ!空気抵抗も摩擦もある中で等速直進運動を続けるとしたら、最早永久機関の完成じゃないか!

だいたい、それでエンジンブレーキがかからないなんておかしいじゃないか!最近の車は、エンジンブレーキをオプションで付けなきゃいかんのか!)

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どうやら、彼の住む世界では現代の物理学の常識を覆すような新たな体系が存在するらしい。

教官君、君みたいな逸材は、こんなところにいないでどこかの物理学系の研究所にでも行くべきだと思うよ。

 

大人気ないですね。すみません。

いや、分かってるんですよ?教習所内の直進距離程度じゃ大して減速なんてしないことぐらい。

でも、普通の教官は、(いくら車の左側が空いていることを示すためとはいえ)生徒が運転している最中に急に助手席のドアを開け放ったりはしないと思う。

それとも、僕の運転がよほど下手だったということなんですかね。

 

ドラえもんの漫画で、のび太の父親が「教習中に助手席からガミガミ言われる所為で上手に運転できない」的なことを言っている話を読んだ気がするのですが、そう言いたくなる気持ちがよく分かりました。

 

彼みたいなのは(←まだ愚痴を続ける)、「2時30分前に来てね」と言って、2時20分に来た人間を罵倒するタイプ。

言葉と一緒に思念まで全部伝わってるわけじゃないんですよ。

出来るだけ誤解を生じさせない表現を用いるべきで、配慮が足りない。そこで罵倒するなんて以ての外。正直、この状況なら聞いた側が事前に確認しておくべきだとは思いますが。特にそういう人間が相手だと分かっている場合には。

 

グダグダ書いてきましたが、こういう人間って結構多いんですよね。というか、多分自分もそう。

当然のように他人が自分と同じ前提を共有していると思い込むのは勝手なのですが、こういう人は試験問題を作っちゃいけません。自己中心的で多角的な思考が出来ないから、出題ミスが起きるんです。

 

「俺は(私は)はそんな奴らとは違うぞ!」と思ってしまった画面の前の皆さん、以下の文章を読んでみてください。

 

目覚まし時計よりも前に、自然と目が覚めた。時計の針は6時を指している。結局昨夜はなかなか寝付けず、眠りについたのは恐らく3時過ぎ。それでも、眠気は全く感じない。ついにあの人に会える。そう思うだけで胸が高鳴った。最後にあの人に会ったのは、1週間前だ。たったの7日間。それでも、付き合い始めてからこんなに長く顔を合わせなかったことはなかった。待ち合わせは、駅前広場で10時。まだ4時間もある。 

(中略)

時刻は9時半。駅前広場に到着した。流石にまだいないだろうと思いつつも、辺りを見回す。自分と同じく待ち合わせをしているらしい人々の中に、この一週間待ち望んでいた人影を見つけた。噴水脇のベンチに腰掛け、本を読んでいる。その様子が、溢れ出る知性を醸しだしていた。本当に、自分には出来過ぎた相手だと思う。はやる気持ちを抑えつつ、早足でそちらに向かった。

「待たせちゃったかな」

俯いて活字に見入っているその人に、そっと声を掛ける。

(1)は顔を上げ、優しく微笑んだ。

 

(中略)は気にしないでください。書くのが面倒になっただけです。

さて、ここで問題です!(1)に入る言葉は何でしょう?

①彼

②彼女

 

基本的に、女性読者の方は①、男性読者の方は②を選んだのではないしょうか?AIだとどうなるんでしょうね?

特に正解は無いので、どちらで考えていただいても構いません。ただ、最近の流れに則ると、組み合わせとしてはそれぞれ男女の2通りずつで計4通りということになるわけです。(トランスジェンダーとか言い出すとややこしくなるので、取り敢えずそういうことにしておきます)

 

さて、小説を読む人なら、誰でも一度ぐらいは「途中で主人公の性別を間違えていたことに気付いた」という経験があるのではないでしょうか。

一人称視点で物語が進む場合って、文章からだけだと最初は性別や年齢の判断が難しいことがあるんですよね。さらに、自称が「僕」でも、ボクっ娘の可能性だってあるわけです。

このような場合、前述の自己本位な思考が現れます。判断材料が無いために、自然と自分と同じ立場(ここでは性別)として捉えてしまうのです。

ただ、これについては仕方のない部分もあるかと。主人公の性別を一切特定せずに物語を読み進めるのは難しいと思うので。

読書に限らず、実生活において自然と思い込みを前提としている部分は色々とあると思います。いちいちゼロから考えていたら円滑な日常生活を送るのは無理でしょうし、ある種の生存戦略ですかね。

 

(何言ってんだコイツ?)と思っているかもしれませんが、(特に大学)受験生の人はナメちゃいけませんよ?

今年のセンター試験の英語で、語り手が人間だと思って読み進めてみたら、まさかのタコ星人(A being whose shape resembles an octopus)だった、という問題がありましたから。

 

 

 

それでは、本題に移りましょう。

予告通り、「僕にとってのラノベの意味」的な話です。

一応断っておきますが、僕自身はラノベをそれほど読んでいないので、あくまでもここで記す内容は実情ではなくある種の「理想」や「目標」です。

これまで読んだラノベは、

ストライクウィッチーズ系列作品(8割ぐらい)

魔法科高校の劣等生(途中まで)

さくら荘のペットな彼女(全巻)

マリア様がみてる(全巻)

シュピーゲル・シリーズ(一部)

ぐらいですね。これらの作品についても、必ずしもこの記事の内容が該当するわけではありません。

以上のことを踏まえた上で、まずは以下のやりとりをお読みください。

 

 

 

ラノベなんて、『大学生になってまで読むべきものじゃない』んじゃなかったの?

赤子が赤子を育てることはできないわ。人生という長い旅路では、時に導き手が必要でしょ?

人生の助けにするなら、漱石とか鴎外みたいな文学作品でいいじゃん。わざわざ(大してレベルの高くない)ラノベに拘る必要はないと思うんだけど

勿論、ラノベはまだまだ未熟だと思うし、これから成熟していくのかどうかすら分からない。文学の一形態としても、読み物としても、ね。

これはラノベに限った話ではないのだけれど、一般文芸も含めて、現代の作品がそう簡単に文学作品を超えられるわけはないのよ。なにしろ、相手は数十年、数百年、ものによっては数千年も前から生き残ってきたものだもの。

特にラノベなんて所詮は素人の自己満足みたいなものなのだから、仕方がないわ。でも、だからこその強みがある。可能性がある。

ここではネット小説も含めた大きな枠組みとしてライトノベルという言葉を使わせてもらうけれど、ライトノベルの特徴って、書き手と読み手の距離なのよ

近代以降、メディアの発達によって情報の送り手と受け手の分化が進んだことは貴方も理解しているでしょう?そして、インターネットの発達が再び両者の距離を近づけていることも。現代においては、ネットを通じて簡単に個人が情報を発信できる。

似たようなことが、文学についても言えるわ。こちらについては、昔から作り手と受け手はかなり分離していたと思う。いえ、識字率の低い時代には、むしろ両者は近かったかもしれない。そして、近代以降の識字率の向上は受け手側を増加させたものの、作り手側に回れるほどの力を与えたわけではなかった。ここに、情報と同様の両者の乖離が見出せるのではないかしら?でも、こちらでもインターネットの発達が状況を変えた。確かな証拠があるわけではないけれど、ライトノベルというジャンルを生み出したのは、恐らくインターネットだと思うの。オタク文化の普及という点でもね。その後、ライトノベルは急速に広がっている。今や、毎年様々なラノベ新人賞が設けられているわ。数多くの小説投稿サイトが作られ、誰でも自分の書いた作品を投稿できる。編集者の目に留まって、そこからラノベ作家としてデビューすることだってある。

書き手と読み手の距離というのは、つまり読者と作者の立場の交換可能性のことなの。読者から作者へのなりやすさと言った方が分かりやすいかしら。この交換可能性の高さこそが、ライトノベルの特徴であり最大の強みだと思うのよ。

勿論、一般文芸で作家デビューするような人々は、元は良い読み手だったことでしょう。それに、データの上では、ライトノベルの読者のうち何らかの形で作品を発表しているような人々は少数だと思う。でも、他のものに比べれば、ライトノベルにおいては読者と作者がほぼイコールで繋がれていると言っても過言ではないのではないかしら。

少し別の視座から見ると、特にネット小説で、読者の声が直接作者に届くという点も大きいでしょうね。ただ、SNSの発達があるから、これはライトノベルに限った話じゃないわ。

話を戻すけれど、端的に言うと、ライトノベルは文学界の民主政なのよ。そうすると、文学作品が君主政、一般文芸が寡頭政といったところかしら。

こういう見方はかなり恣意的なものではあるけれどね。精緻な論理性なんて求めないでちょうだい。

ラノベで俺TUEEEが流行るのは、読者がそれを求めてるからでしょ?作者の精神年齢だってそこにある。社会的(あるいは文学的)な作品を書いても多分売れない。そもそもそれを書ける人がいない可能性もある。そして中身スカスカの下らない作品が大ヒット。広がり過ぎた結果質が低下したんだよ。最初に高かったのかどうかはさておき。結局ラノベがコンテンツとして浄化されるにはある程度顧客を切り捨てる、マーケットを小さくするしかない。でもそれは商業作品として終わってる。ラノベは既に堕落の袋小路に入り込んでるよ。ラノベが民主政なら、既に衆愚政治に陥ってるってことさ。

貴方が言うほど、この世の中は捨てたものではなくてよ?貴方だってラノベを読んでいるじゃない?どこかに価値を見出してくれる読者はいる。そういう人たちがいる限り、作者には良質な作品を送り続ける意味が、そして義務がある。

なんとなく言いたいことは分かったんだけど、このままだと御巫さんが単にクリエイターとして娯楽を提供しようとしているようにしか見えません……もしそうだとしても、そういう意志を否定しようというわけじゃないんだよ?ただ、御巫さんがそれだけのためにラノベ作家になったとは思えない

つまり、ラノベが民主政だとして、民主政であることにどんな価値があるのかってこと。民主政のラノベより、君主政の文学作品の方が良いじゃん。(というのは人によるのだろうが)

それに、最初の導き手って話なら、やっぱり文学作品(純文学)でいいじゃん、という気がしないでもない。

ごめんなさい。説明が不十分だったわね。というより、まだ半分しか説明していないわ。

勿論、ラノベをただの娯楽として捉えているわけではないのよ。

 

小説には、3種類あると思うの。

①作品の中に立つもの(物語を追体験する形で作品の世界に入りこむもの)

②作品の上から見下ろすもの(神の視点で物語を俯瞰するもの)

  そして、

③作品の下から見上げるもの(上手く説明できないけれど、山道で先を行く人を眺めるイメージ)

 

③は、貴方が『こころ』を読んだ時の状態と言えば分かるかしら?

最初の2つは、物語を楽しむものだわ。これは娯楽の範囲内でしょうね。でも、最後の1つは違う。これは、物語から学ぶものよ。

ただ、全ての作品が、常にどれか1つに定まるわけではないでしょう。それは読み手によって変わるものだから。人によっては、複数にまたがる場合もあるかもしれない。

私が書きたいのは、誰かにとっての③になれるような小説なのよ。

 

それで、「ラノベ(民主政)であることにどんな価値があるのか」という話ね。

まず、主な読者層として(中)高生を据えていることを前提とするわ。

貴方の言う通り、文学作品で事足りるなら、ラノベに③(=導き手)の役割を求める必要はないでしょうね。でも、現代において、漱石や鴎外に釣り合う人間(青少年)なんてごく少数よ。それは、私よりも貴方の方が強く感じていることじゃない?

さらに、そういう人間でも、恐らく文学作品だけじゃ足りないわ。

アイデンティティの内面化の話は前にしたわよね?明治以降の文学のテーマとして「近代的自我」が指摘されることがあるけれど、それでも漱石や鴎外には自己の拠り所としての国家があった(そもそも近代的自我は国家の上に成り立つものでしょう)。そして、今は違う。こういう時代だからこそ「日本人であること」に何かしらの意味を感じている人は少なくないでしょうけれど、それだけではアイデンティティの問題は解決できていないわ。

つまり、現代における自我の問題には、文学作品だけでは対応しきれない。

 

ここで、ラノベであることに価値が現れる。

ラノベでは読者≒作者だという話をしたでしょう?(あそこで使った意味でのライトノベルラノベを包含するもの(土台となるもの)だから、ここではラノベも読者≒作者であるものとしてしまうわ)

ざっくり言うと、「同じ立場だったからこそ分かることがある」ということよ。

答えを教えてあげようなんて、そんな尊大なものじゃないわ。だいたい、普遍的な答えなんて存在しないもの。ただ、少し先に似たような道を通った人間として、一つの在り方を示すだけ。

 

明治期の文人たちの作品が仮に仮構の内面に基づく私小説に過ぎないのだとしても、そこには近代的自我を求めて苦闘した形跡が記されている。

それならば、身分的自己同一性の喪失に苦しんだ近代の苦悩を描いたのが明治期の文学作品ならば、アイデンティティの不在に苦しむ現代において、特に自我を確立できずにいる青少年たちに対して、「現代の文学作品」としてのラノベを送る意味があるんじゃないの?

文学作品未満でもいいじゃない。等身大の悩みに寄り添うことに意味があるのよ。

それに、たとえ導き手(という表現は些か不適当だけれど)のような役割を担えないとしても、人は物語に触れることで前向きになれると思うの。それで誰かが一歩を踏み出す助けになれたなら、こんなに素敵なことってないと思わない?

かなり理想論的な話をしている気もするが、だいたい分かった。

それで、御巫さんは何を伝えるのさ?ラノベ読者なんて、所詮は大した脳も持ってない人々でしょ?

多分、貴方はもう聞く必要のないことよ。それに、何だっていいじゃない。ただの自己満足なんだから。

 

(拙著『Re: Re2:^41 天才少女から、秀才系ぼっちに送る572通 』より。一部改変)

 

 

一度でいいから使ってみたかったんですよ!この「拙著」って言葉。

でもごめんなさい。この作品、出版は愚か完成すらしてないです。タイトルも今適当に付けた。高3の時、新人賞用に書きかけた作品です。何故そんなことをしたかという話は、前回記事参照。ラノベの新人賞応募用の作品で作中のキャラにラノベをディスらせるという暴挙をやっているわけですが、こういうやり方も審査員受けは悪くないのではないかと密かに思っています。実際はどうだか知らんよ?

多分著作権があるから、勝手にパクったりしたら激おこです!民法709条に基づいて損害賠償請求しちゃうぞ!(709条って言いたいだけ)

勿論、リンクとか引用とか好きにしちゃって大丈夫ですからね!(あまりバッシングされると心が折れるかもしれないけれど、)その時はコメントとか貰えると筆者が泣いて喜びます。

 

それにしても、他人の発言ってことにして自分の意見を言うのって便利ですね。 

この記事で書きたかったことは全て御巫さんの言葉に表れているわけですが、ちょびっとだけ付け足します。

それは、このような考えに至った背景です。

御巫さんが言っているような考えを持ったのは高3の時なのですが(←「ラノベ作家になる」宣言をした後で必死に考えた)、実はこの考え方は元同志A(前回記事参照)の発言から着想を得たものです。

高校の現代文の授業で『こころ』を始めとした文学作品を続けて扱っていた時期があったのですが、丁度その頃のことです。当時のメールを発掘したので、該当部分を抜粋しました。(著作権云々と抜かしつつ平然と他人の著作物を使っていくスタイル)

 

最近の現代文の授業が結構ピンポイントで俺を抉ってくる

ここのところの現代文のテーマというかメインは「近代日本におけるエリートの苦悩」じゃん?

かつての江戸時代という身分社会から近代社会への大転換期に、日本のまさにトップ集団が陥った苦悩についてやってる訳でしょ

最初は何故そんなことをやるのか?って俺は思ってたんだよ

みんな言ってることは(大体)同じじゃねえか!(笑)みたいな

でも俺は気付いたんだよ

これは「◯◯生という、日本国家におけるポストエリートへ、現在もしくは今後陥るであろう苦悩や苦痛への処方箋」だと

こうだと俺は信じたい

そうすると授業の合間に教師が俺らに語ることもだいぶ合点がいく

そして、それこそが、まさに俺に突き刺さってくる理由なんだよ

俺が森鴎外夏目漱石といった、まさに明治日本における真のトップと同格とは思ってないよ(流石に烏滸がまし過ぎる)

でも俺(そしてもしかするとお前も)の抱えている現在の苦悩や苦痛というものへの、参考の一つとして現代文の授業があるんだと思う

つまり俺(達)のように苦悩している人間は一人じゃないんだよってこと

ひょっとすると同時代にはいないかもしれないが、少なくともこの日本において同じように悩んだ人間がいて、彼等はどう足掻き、何を我々に遺したのか?ってことが真の主題なんだと思う

これが突き刺さってくるんだよ

なんか◯◯にいると受験がどうでもよくなってくる

別のところにある何かについて考えさせられる

(中略)

素直に勉強しますよ

凡人ですから

改めて思うけど、夏目漱石とか森鴎外って本当に天才だったんだろうね

勿論相当の努力はしただろうが

 

(元同志Aのメールより。固有名詞など一部改変)

 

 

とんでもないことに気付いてしまったようだな……俺は考えたこともなかった。

本気でそんなことを狙ってやってるんだとしたら、現文の授業のレベル半端なく高いじゃん!他の教科なんか比べ物にならない。

でも、教科書を作ってる国も実は相当ハイレベルってことになるね。

エリートはエリートでも、途中で走るのを止めた人の話だね。国家の犬になってそのまま走り続けた人の話はない。作者は走り続けたのかもしれないが。

俺はここ数年?アニメの中に答えを探し続けてきたのかもしれない。もう自分の中で、ある程度答えは固まってきた感じもする。

同世代にも、流石に同志がいることを信じてるぜ。いなかったらこの国本当に終わってる。クラスの連中見たって何も分からないけどな。

それでも、その100年前の人間が提示した主題に対する普遍的な答えは存在しない。結局、「あんたはどうする?」ってところに帰ってくるんだな。

いつまでこんなこと考えてられるんだろうな。これを何かの形で残したいと思うのは、きっと自然な感情。いつも言っているが、気付くのが遅過ぎた。

昔の人は、よく勉強したんですよ。しなきゃいけなかったんですよ。だからといって彼らの優秀さに変わりはないけど。

 

  (Lukrezの返事より。アホっぽさが滲み出ているものの、残念ながらほぼ原文)

 

 

因みにこの後Lukrezは『舞姫』の豊太郎(主人公)をこき下ろし、「結局俺にとって、物語は物語でしかない」という謎の発言をしています。今読んでも、何を思いこの発言をしたのか分からない……独善的(という言葉でニュアンスは伝わるはず!)な文章を書くのは昔から変わらないということですね。

 

実のところ、当時現代文の授業は圧倒的な睡眠率の高さを誇っていた(まともに聴いていたのは数人だけ)し、そもそも授業で扱う作品をきちんと読んできている人間が全然いませんでした。現代文の授業を「ポストエリートへの処方箋」などと言っていた元同志Aも、その例外ではありません。因みに僕はその例外に入っちゃうんだな〜真面目に授業聴いてたし。しかしながら、当時彼の発言はかなり的確なものであったように感じたし、今でもそれは間違っていないと思います。

 

丁度「ラノベ作家になる」宣言をした頃の僕の発言も発掘したので、それも載せておきますね。これは、上のやりとりでは、どちらかというと御巫さんではなくもう1人(浅野君という名前です)寄りの考え方かな。

 

(『りゅうおうのおしごと!』を絶賛する元同志Aに対して)

 

弟子じゃなくても、側に誰かいるのってやっぱり大事なんだよなあ。しかもその幼女って(憧れなのか何なのかは知らないが)主人公を慕ってくれてるわけでしょ。それは強い。

でも、なんかそういう風に本気でぶつかれるものって、俺(たち?)には勉強しかないんだよね。今まで何もしてこなかった自分が悪いのですが……本当にこれまで何してきたのかと思ってしまう。

それじゃあ、ここから先は上で微妙に触れたラノベについての話と絡めて*1。イメージで書いてるから実際には違う部分もあるかも。

まず、やっぱりこういう作品好きなんだな〜と。そういうところ嫌いじゃないぜ。

ただ、これも分かりきってることだけど、俺が読んだら違う読み方をする(違う視点で読む)と思う。そしてこれが、ラノベ(に限らず何にでも当てはまることではあるけれど)の関門の一つ。

「そこら辺のラノベとは違う」って書いてるが、まあ実際にそうなんだと思うけど、果たしてこの作品を読んで八一に自己投影できる人間がラノベ読者にどれほどいるのか。単に感情移入するってことじゃない。それだけなら小学生でもやってる。高度に八一に同調できるほどの中身を持った人間がどれほどいるか。つまり能力と経験だな。この読者層のレベルが、ラノベのネックの一つ。売り上げは数だからね。どんなにすごいこと書いたって、理解してもらえなかったら意味ないし売れない。俺TUEEE系が大好きな人にとっては全く面白くないかもしれないし。だからと言ってそこにレベルを合わせてほしいわけじゃないけど。

もともと作品なんて、万人の琴線に響くものは作れない。かりにあったとしても、それはとても弱い響きでしかない。東日本大震災とかいう途轍もなく大きな物語(という言い方は不謹慎極まりないが、あれは久し振りに多くの人間が共有したものなので敢えてそういう表現するけど)が(ほぼ全国民に)生み出したものが、絆なんていう薄っぺらい連帯感だったわけ(俺はそれでいいと思うけど)じゃん。そして今や大半の人間にとっては「そういえばそんなのあったね〜」程度の存在(少なくとも俺にとってはそう)。あれだけ壮大な物語でも、ここまでそれぞれに与える影響って違うんだよ。まあそれは各人の関わった程度の深さの違いもあるけど。恐らく、人数が増えるほど、それに反比例して一人当たりに与える熱量は減る。リアルに万単位で人が死んで生活にも影響が出てるものでさえそうなのに(それを物語とかほざいてる俺自身が最も響いてない人間の一人である可能性は否めないが)、ただの虚構(しかも文字の羅列)に何ができるんだって話。まあ虚構だからこそできることがあると信じたいわけですが……

そもそも、ラノベ作家に誰か一人でも震わせられるほどの描写力があるかって問題もあるしね。根本の問題はそこの気がする。でもこればかりはどうしようもない。そういうコンテンツだから。

まあそれで、作品には波長があるし、読者にも固有振動数があるわけよ。今回りゅうおうのおしごとがそこまで衝撃を与えたのって、結局は八一に強力に共鳴したからじゃん?共鳴したのなら、その人にとってはとても良い作品になる。でもこれができなかったら、物語は物語の域を出ないし、どんなよく出来た話でも、寓話的なものに終わる。場合によっては不快なものにすらなりうる。りゅうおうのおしごと!については売れてるみたいだし、何かしら万人に訴えるものがある(というかそれが文学の最低ラインであるべきなのだが)んだろうけど。

ただその最低ラインすら満たせてない結果、寓意性すらろくにない低俗な作品が市場を席巻してるという残念な現実がある。多分一般文芸よりも売り上げが大事なコンテンツだから、そうなるのも仕方ないと言えば仕方ない。本気でコンテンツを変えようとしたら、規模を縮小するしかないんだよね。ただそれはメディアのやることじゃない。消費者側は貪欲により高度な作品を求めていくべきだが。

  

  (Lukrezのメールより。一部改変。)

 

どの口が語ってるんだ!って感じですね。一部とんでもないことを抜かしていますが、被害者の方々を冒涜するつもりは一切ありません。炎上とかしても困るので、その辺りはご理解いただきたい。

 

ついでに。御巫さんが小説(というより読み方)を3つに分類していますが、これについてかつてのLukrezが迷言を残しています。

 

 

そもそも主人公に同調する時点で読み方として終わっている!とか言ってみる。俺が最後にキャラに感情移入したのなんて小学生の頃(適当)だぞ。感情移入するのはお子ちゃまの読み方、上級者は俯瞰する。

 

      (Lukrezのメールより)

 

これは言い過ぎだと思いますが、実際に登場人物に感情移入することは久しくしていない気がします。最近は殆ど小説を読んでいないので今はどうだか分かりませんが、多分感情移入することは無いんじゃないかなあ。勿論そこには読む本の内容の違いもありますし、それ以上に読書量の違いもあるような……

 

 

ラノベを民主政として捉える考え方はこの記事を書いている最中に思いついたものですが、我ながらこれは面白いアイデアじゃないですかね。軽くググった感じ似たような意見は見つけられないし、もしや完全な新説を提唱してしまったのか!?

だから何だ、って話ですが。

 

今回はこの辺で終わりにします。次回記事の内容は未定ですが、次は軽めにする予定。終わり方は、恐らく今後も毎回こんな感じです。それでは。

 

*1:ラノベのストーリー展開やエンターテイメント性の話をしていました