元 ハイスペック()ぼっちの回顧録

かつてハイスペック()ぼっちを自称していた文系大学生のブログです。「常に観測者でありたい」

ぼっち道をゆく  第1回 「ぼっち」とは何か 〜「ぼっち」の定義〜

新学期が始まりました。朝起きて大学に通う日々が戻ってきてしまった……

気付けば前回記事から2週間以上経ってしまいましたが、やる気が失せないうちに、前回予告した記事の第1回を書いてしまいます。本当は、予備試験の勉強したくないだけ。 

何か全体を通したタイトルが欲しかったので考えたのですが、良い案が思いつかないので、とりあえず「ぼっち道をゆく」としておきます。

 

念の為書いておきますが、「ぼっち、道(みち)をゆく」ではありません。「ぼっち道(どう)を、ゆく」です。

「ぼっち道」の「道」は、弓道とか茶道の「道」と同じです。ぼっちという在り方を通じて鍛錬と真理の探究を重ね、「究極のぼっち」を目指します。それは同時に、物理学から政治学、哲学まで幅広い学問分野を包含した一つの体系でもあるのです!

っていうのは冗談です。「道」を付けたらそれっぽくなるから付けただけ。

 

 

 

それでは、内容の方に入っていきましょう。

記念すべき第1回のタイトルは、「『ぼっち』とは何か 〜『ぼっち』の定義〜」です。

文字通り、「ぼっち」とは何かを考えます。

何を語るにしても、対象を定義することは重要だと思うのですよ。認識に差があると、適切な議論はできませんからね。

 

しかしその前に、全13回を予定している一連の記事がどのようなものか、ということを示しておく必要があるでしょう。換言すれば、何故こんな記事を書くのか、ということです。

 

ここ数年、孤独に対する社会の評価が変わってきているように感じます。つまり、これまで主に害悪として扱われてきた孤独に対して、肯定的な評価がなされはじめていると思うのです。*1ようやく時代が俺に追いついたようだ。

勿論、そうした言説は今に始まったことではないでしょう。しかし、かつてないほど大きな(と言っても大したことはありませんが)変化の波が押し寄せてきているように感じます。書店に行けば孤独を推奨するような自己啓発本も少なからず見つけられることでしょう。

背景には色々あると思いますし、それについてここで深く突っ込むつもりはありません。しかし、中高生の自殺の問題や、LGBTなどの少数派に対する態度の(少なくとも表向きの)変化などがその一翼を担っていることは間違いないと思います。もしかしたら、世界で流行りの自国第一主義的なものにも通じる部分があるのかもしれません。

 

さて、そうした事実?を踏まえた上で、ここで「ぼっち道をゆく」なる題の記事を書こうとしているのは、なにも流れに便乗してぼっちを推奨しようなどと思っているからではありません。寧ろ、僕としてはこのような流れに賛同しかねていると言ってもいい。

というのも、上述の社会的な流れとぼっち道では、恐らく抱いているものが全く異なるからです。それに、ぼっちというのは人間の在り方として決して適切なものではないでしょう。

 

ということで、一連の記事を読めば、望まずしてぼっちになった人間が救われる、なんてことは(ほぼ)ないでしょう。ぼっちを含む少数派を元気付けよう、などと思っているわけではありません。援助を求めているなら、多分自治体の窓口とかその手のNPOにでも連絡する方がまし。

何を思ったかぼっちを志してしまった人間の手引きになる、ということもないはずです。そんなものになっても困る。

健全な中高生に対して、道を誤らないよう戒めるものでもありません。そもそも、健全な中高生はこんなもの読んだりしないんだな。

 

これは、ぼっちの言い訳に過ぎないのです。吐き出す先もなく頭の中を彷徨い続けている、くだらない言い訳に過ぎないのです。

それを見知らぬ何処かの誰かさんに読んでもらうことで、ちょっと気を楽にしよう、というだけなのです。

ブログなんて、究極的には自己満足なので。

 

 

 

何となく意図を理解してもらったところで、本題に入りましょう。

早速ですが、ぼっちの定義は何か。

色々な考えがあると思いますが、ここでは以下のような定義を用います。

 

定義1

 ぼっちとは、孤独を感じている常況にある者を言う。

 

ちょっと成年被後見人を意識してみた。(民法7条参照)

「ぼっち」が「ひとりぼっち」の略であることは異論のないことで、そのような原義を考えると、上記の定義は若干意味が違ってきます。その問題については後で触れることにして、解釈にあたっていくつか注意をしておきましょう。

 

・「孤独を感じている」について

何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、これは意外と深い問題です。

しかしここでは深入りせずに、主に2つの状態を指すと解します。

まず、孤独を2つの意味に分けます。

①心情としての孤独。寂しさ。

②事実としての孤独。一人でいること。

定義1は、この両方を含むものです。

つまり、①所謂「寂しい」という状態に加え、②「客観的に見て自分が一人(=ひとりぼっち)であること」を認識している状態をも指します。

前者を「主観的ぼっち」、後者を「客観的ぼっち」と呼ぶことにしましょう。

定義1では、少なくとも一方に該当すれば、ぼっちと見なします。勿論、どちらにも該当するケースが殆どでしょう。一般的には、ひとりぼっちだからこそ寂しさを感じるわけで。

ただ、定義1によれば、寂しさを感じていなくてもひとりぼっちであると認識していれば、ぼっちであることになります。これは、ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではないという観点からすれば、当然の帰結です。

唐突に登場した「ぼっちや孤独が必ずしもマイナスのものではない」という考えは、一見すると「ぼっちが人間の在り方として適切なものではない」という見解と矛盾するようにも思われます。これについては(忘れていなければ)後々説明するので、今はそういうものだと思って受け入れてください。全13回の記事を読み終えた暁には、きっと納得もできていることでしょう。

他にも特殊なケースがあるので、それは後述の問1・問2で触れることにします。

 

・「常況」について

 具体的にどれくらいの割合なのか、ということが問題になりますが、これは緩く解釈してしまっていいでしょう。

つまり、60,70%ぐらいあればよいものとします。*2sometimesとかoftenって感じ。

もっと言えば、本人が「そう感じていることの方が多い」と感じていれば、それでよいと思います。流石に緩くしすぎかな。

というのも、「文字通り常にひとりぼっち」という状況は考えにくいからです。

学校や会社や家族がありますから、一人ぐらいは傍に立ってくれるような人間がいてもおかしくはないのです。そういう人間が本当にゼロだと言うのなら、1回ぐらいは認識に欠陥があることを疑うべきでしょう。*3

勿論、四六時中寂しさを抱えている、ということは考えられます。

でも、「常況」をあまり厳しく解釈してしまうと、ハイスペック()ぼっちを自称していた当時の僕が「ぼっち」に含まれなくなるという不都合が……

 

 

これらの点については、批判もあるところだとは思います。しかし、解釈にあたっては、定義した人間である僕が言っていることが正しいのだ!

それでは、先述の論点に。

 

 

問1 たとえ客観的に見てひとりぼっちであっても、それを本人が自覚していない場合には「ぼっち」に当たらないのか。「孤独を感じている」とあることから問題となる。

e.g. Aはクラス中から毛嫌いされ、彼と親しい人間はいない。しかしクラスメートが遊んでいると、Aはさも当然のように入ってくる。彼の中では、クラスメートは友達として認識されているらしい。Aはぼっちと言えるのか。

 

勿体ぶった書き方をしているのは、気にしないでください。予備試験の論文を意識しているつもりのだけです。

この問題は、要するに、外からはどう見ても「ぼっち」なのに、本人がそう思ってなきゃ「ぼっち」じゃないのか、ってことです。

ひとりぼっちである状況を認識していない以上、当然「寂しさ」なんて感じるはずもありませんから、どちらの条件にも合わないことになってしまいます。

これについては、解釈に忠実に「ぼっち」には当たらないものとします。

というのも、遅かれ早かれそうした状況は解消されるからです。

 

ぼっちというのは、周りに人間(集団)がいるからこそ、相対的に定義されるわけです。*4

そのような状況では、ずっと気付かないということは考えにくいでしょう。本人が気付かなくても、周りの人間が(好意にしろ悪意にしろ)気付かせることもあります。そして本人が認識すれば、その瞬間から「ぼっち」に該当するのです。

気付かない場合でも、所謂友達のようなものができれば、ひとりぼっちではなくなります。

 

それに、認識できていない人間をぼっちに含めたところで、大して実益が無いんですよ。

その人に何かしら働きかけるということは、認識させることに他ならないわけで。放置しておく場合には、その人のことを考える必要もありませんからね。

 

 

問2 客観的に見ればひとりぼっちではない主観的ぼっち*5は、「ぼっち」と言えるのか。原義に反するように見えることから問題となる。

e.g. 学級委員長のBはいつも人の輪の中にいるが、心の底で寂しさを感じている。Bは「ぼっち」と言えるのか。

 

知り合いは多いけど親友はいない、真の理解者が欲しい、みたいなパターンです。

アニメだと、時々こういう女の子いますね。そこにイケメン主人公が転校してきて、彼女は恋に落ちる、と。

それに、SNS時代の現代においては、こういうパターンは増えているのではないでしょうか。 

これについても、解釈通りに「ぼっち」に当たるものとします。

「贅沢言うな!」という怒声が聞こえてきそうですが、ぼっち道で扱うのは主に心の問題なので、本人がどう感じているか、というのは大事なんです。

それに、敢えて主観準拠の定義にしたのはこのようなケースもぼっちに含めるためです。

 

 

以上のように、ぼっちかどうかの判断に際しては客観的態様は問いません。主観的態様を重視します。 今後も諸問題について基本的に主観を重視する方向で行くので、そのつもりで。

 

定義したのはいいのですが、 考えてみたら、今後ぼっちについて一般論的な内容を扱うことは殆ど無いですね。他のぼっちの生態なんて興味もなかったし。元同志Aと出会って以降の僕のケースは、かなり特殊なパターンのような気もします。 

一般論について知りたい人は、適当に本屋で漁るのが良いでしょう。ぼっちをテーマにした本もそこそこあると思いますし、先述の通り最近孤独を賞賛するような論調の自己啓発本が増えている(ように感じる)ので。読んだことはありませんし読む気もないので、内容については一切関知するところではありませんが。

 

 

 今回は、これぐらいにしておきましょう。ぼっちの定義は超重要です。試験に出ます。

第2回は、深遠なるぼっち道へ 〜かくして少年はぼっちとなった〜」と題して、ハイスペック()ぼっちを称するに至った少年の道筋を辿ります。

彼が本当にぼっちだったのか、という問題も扱う予定です。尤も、これについては既に答えが出てしまっていますが。

 

 

 最後に余談。

 

唯一とも言える大学でのぼっちの欠点として、一人で授業を受けているとほぼ確実に寝る、という弊害があったのですが、なんと、「隣にクラスメートがいても寝るものは寝る」ということが判明しました!僕だけじゃなくて彼も寝てた。

今学期は授業中に寝ないつもりだったんだけどなあ。早くも初週で破ってしまった……

ちゃんと数えたわけじゃないですが、先学期は一睡もしていない授業って多分全体の1割ぐらいなんですよね。そのせいで1科目しょうもない点数を取ってしまいました。対策を立てようと思ったのがラスト2回ぐらいになってから、というのも問題があった。

理系だとどうなのか知りませんが、基本的にひたすら教師が話しつづけますからね。面白かろうが面白くなかろうが、寝るときは寝る。それでも授業が終わった瞬間眠気が吹き飛ぶんだから、不思議なものです。

コーヒーとか飲んでもあまり効果が無いんですよね。どのようにして防ぐものか。

だいたい、授業が長過ぎるんですよ。語学とか、体感時間恐ろしく長いし。

高校の時から授業中寝てたのが良くないですね。多分あれで、寝る癖がついてしまった。中高生は注意しましょう。

それでは。

*1:孤独担当大臣なるものを創設した某国のような例もありますし、このような動きは日本だけかもしれませんが……

*2:なお、民法上の「常況」はもっと高い割合を指していると思われるので注意。それとも、これってパーセントとかそういう問題じゃないんですかね。よく分からん。

*3:認識を疑った結果本当にひとりぼっちだったというケースを一切否定するつもりはないことを、一応記しておきます。(2018/11/3 追記)

*4:絶海の孤島に一人で住んでいる人間がいたところで、それを知る者がいなければ「ぼっち」として定める意味はない

*5:全ての主観的ぼっちが該当する、ということではなく、外から見ればぼっちじゃないのに本人は孤独を感じている、ということ